井上輝子氏脚注についてのmacska氏エントリーに関連しての考察

macskaさんが「『ジェンダー『『ジェンダーフリー』のつかわれ方」脚注に見る山口智美さんへの怨念」というエントリーを書かれている。これについて若干思うところを書いてみたい。
私も先日日本で、この論文が所載されている『「ジェンダー」の危機を超える!」(青弓社)をちょうど買って来たところだからだ。

ここで問題になっている、井上輝子氏の論文の脚注部分だが、私が読んだ時の最初の反応は、「今になって、和製英語だとかそうではないとかいうところに議論を戻さないでもらいたい」というものだった。
おそらく井上氏は、私の『バックラッシュ!』本での、マーティン&ヒューストン両氏のインタビューや、私自身の論文が出る前にこの原稿を書かれたのではないかと推測するが、、


ちなみに、『バックラッシュ!』の論文にて、私は以下のような脚注をつけている。

脚注3 言語に限ってのみ、gender-free languageという表現が使ることもあるが、これは英語において本来は男をあらわすheやmanなどの言葉が、<人間>の意味にもちいられているのを、ジェンダーに中立的な(gender-neutral)用法にするといった意味で限定的に使われる。私は通常、性差別的ではない言葉(non-sexist language)という表現を使っている。 (『バックラッシュ!』p.280)

「そんな分かり切ったことを今さら言語学の教授に聞いてどうするという気がする」というmacskaさんに、私も同感だ。macskaさんも指摘されているように、私のポイントは、「ジェンダーフリー」が和製英語かそうではないか、ということではない。べつに和製英語だって、意味がはっきり共有でき、効果的に使える言葉ならそれでいいと思う。そもそも、私が「ジェンダーフリー」がヒューストンの誤読に基づいてつくられた概念だったと指摘したのは、「ジェンダーフリーがアメリカの教育学者も使う概念だ」といったような当時言われていた論が、単に事実関係として間違っているというのみならず、そのような権威付けのあり方はおかしいと感じたからでもある。このような方向性では、バックラッシュと対峙していくにはマイナスなのではないかと危機感を覚えたからだ。そして、「ジェンダーフリー」という言葉がおかれた状況は「混乱」以外の何者でもないように思われた。だからこの言葉が発明され、広げられ、使われて来た歴史を丁寧に見て行く必要を感じたのだ。

そもそも井上氏が問題にされている、私のウェブ掲載の文章は、「新聞記事の数の推移だけを見ているという限界はあるのだが」という文からみてもわかるように、ヌエックのデータベースを使ったもので限界はある、ということを言明してのものだった。また、私の分析は「ジェンダー」という言葉が減少した時期にはなく、新聞記事において増加した時期に焦点を当ててのものである。井上氏が主張される、2003年以降も「ジェンダー」がらみの書籍などが増えていた、という分析データは、私の主張とそうズレているとは思えない。むしろ、井上氏の分析である、「むしろ、新聞が行政の動きに連動したと解すべきだろう」というのは唐突にも感じられる。macskaさんの言われるように、井上氏がどのように私の主張と違うのかわかりづらい。もしかしたら、ここでわざわざ「新聞」と「行政」にしぼっているということは、「女性学のせいではない、女性学は関係ない」とでもいう主張が隠れているからなのだろうか?私の一連の論文のポイントは、明らかに主流女性学の方向性に対する批判が含まれているので、ますますそう思えてきてしまう。

とにもかくにも、「和製英語かそうでないか」なんてどうでもいいところに、今更議論を戻さないで欲しい!と言いたい。

しかしながら、この井上論文は、今までずっと無視されてきた斉藤正美さんや私の名前が初めて引用された記念すべき(?)論文だった。はっきり名前を出して、言及&批判してくださった(脚注ではあるが)という面においては、井上さんには感謝したい。
そして、相変わらず直接的に引用はしていないが私への言及がかなりはいっていると思われる、同書所載の伊田広行氏の論文については、また別のエントリーで考察してみたいと思っている。