日本女性学会研究会レポ:守旧化するフェミニズム?

12・22 前回の大会シンポ「バックラッシュクィアする」を受けての「07年大会シンポを受けておもうこと」というテーマの日本女性学会研究会に参加してきた。

スピーカーは、女性学会幹事のイダヒロユキさんに、清水晶子さん、堀江有里さん、小澤かおるさん。詳細なレポートがすでにFem Tum Yumブログに掲載されているので、ぜひご参考に。

私は大会シンポも、その前に行われたという研究会にも参加しておらず、昨日の研究会で初めて前回シンポをめぐる問題について知ったようなものだった。遠方在住で、シンポも研究会にも参加できず、ニュースレターで報告を読んでいた私のような会員は、学会をめぐって起きた重要な問題や議論について蚊帳の外だったのだ。たまたまこの日の研究会に参加することができなかったら、ずっと知らないままだったろう。(しかもこの研究会の開催についても、学会発の情報ではなく、ブログやmixi掲載の情報で知ったのだった。)

バックラッシュクィアする」というシンポのタイトルを見たとき、「なんて意味不明なタイトルなんだ」と思ったのをおぼえている。しかし、昨日の研究会にでて、ようやくなぜこのようなタイトルになったのかがわかった。もともとの提案は、「フェミニズムクィアする」、すなわち、クィアの視点からフェミニズムを批判的に検討するというものだったらしいのだ。だがこの企画案は幹事会での話し合いなどをへて、変形され、ずらされ、「フェミニズムにとって今闘うべきはバックラッシュである」という大義名分のもと、「バックラッシュクィアする」にタイトルが変更され、パネル内容もフェミニズム批判がおさえこまれたものになってしまったのだという。学会のニュースレターのパネル報告から得た、何かはっきりと要領を得ない微妙な感じは、こういう背景があってのことだったのだと、初めて知った。

最初に話したイダヒロユキさんと、後に続いた清水さん、堀江さん、小澤さんらのスタンスの違いは際立っていた。イダさんは、「対立をあおらず共闘、連帯しよう」と繰り返し述べ、それに対して清水さんは「内部での不一致を認め、批判は批判として受け止め、正面から反論できる体制を。共闘しようということは実はクィア視座をフェミニズムの外部としてうちだすことなのだ」と指摘された。堀江さんは、批判をめぐる脆弱性女性学会に感じたといい、相互批判は困難ではあっても重要であるが、どう可能にしていけるのかと問題提起。小澤さんはシンポに参加した女性のクィアのさまざまな意見を紹介し、いかに大会シンポでのヘテロフェミニストたちのホモフォビックな言説に痛み、フェミニズムへの反感をもった人たちがいたかということを言われた。清水さん、堀江さん、小澤さんのご発言は、「フェミニズム」への批判をおしつぶそうという権力が女性学会という場で発動しているのだと、手にとるようにわかる内容だった。それに先立ったのが、「対立をあおらず連帯しよう」という幹事のイダさんのご発言だったことが、ある意味皮肉でもあり、女性学会幹事会(全員かどうかはわからないけれど)の危機感のなさを表していたともいえるように思う。

実は私は前日の晩、アメリカから日本に到着したばかりで、疲れや時差ボケもあって、この会に出るかどうかちょっと迷った。でも、当日イダさんのレジュメが配られたとたん、「来てよかった」と思った。なぜかといえば、そのレジュメの中で、「対立を煽る見解(相手をみくびる態度、矮小化)への批判」というセクションがあり、その中に「ジェンダーフリーをめぐって、『バックラッシュ!』のスタンスや関連ブログ」と書かれていたからだ。私がモロに言及されていたわけだ。『バックラッシュ!』本のみならず「関連ブログ」とは、私がチャットなど参加したキャンペーンブログや、私個人のブログも含むと考えるのが自然だ。

対面で議論できる、せっかくの貴重な機会なので、「イダさんはここで私のことを言及されているのではないかと思うが、「対立を煽る見解(相手を見くびる態度、矮小化)」などと言うことで、批判をおさえつけているのではないかと思う」という趣旨の発言をしてみた。だが、それに対して、イダさんは無言のまま。結局私が一方的に発言しただけで、スルーされてしまった。イダさんの当日のお立場が「幹事」であり、「対立を避けて仲良くしようよ」という趣旨のご発言をされた直後だったことで、私への批判も言いづらかったのかもしれないし、私も自分の意見をもっと伊田さんへの質問という形で言えばよかったのかもしれない。それでも、私としては、ここで意見をいわず、議論しないでどうする!という気持ちだった。研究会というのは、議論をするための場所ではないのだろうか。

イダさんのみならず、幹事の方々が、積極的に議論に参加するというよりは、防御や釈明の体制にはいっていたようだったのも気になった。こういう場をセットしてはみたものの、この場をなんとかやりすごそう、そうすれば意見を聞いたというアリバイづくりになる、というスタンスのようにも正直いって感じられてしまった(この私の感覚が外れていることを願いたい)。だが、そんなにまでして守りたいものとは何なのだろう?「日本女性学会」という組織なのか、「女性学」というものなのか、はては「(ヘテロ中心)フェミニズム」なのか。代表幹事の井上輝子さんは、「クィアする」という表現だけですでに幹事会の中では新しいことで、「フェミニズムクィアする」はちょっとなじまないし、今一番相手にしなくてはいけないのはバックラッシュの理論だから、こういうシンポ内容になっていったというような釈明をされていた。また、幹事会は限られた時間の中での議論になるし、ボランティアだし、発題の中身について十分な議論ができていなかったという説明もあった。そして、幹事会がシンポの企画の責任をとることになるので、幹事会が最終的な議題を決定したのだと。しかしながら、この「責任をとる」という意味は、具体的には何をするという意味なのか、わたしにはよくわからないままである。

「十分な議論ができなかった」とか「議論の時間がなかった」だけの問題としてすまされるべきではない、根本的な女性学会の権力構造やスタンスが問われているのだと思う。「バックラッシュ」を持ち出すことで、ことさらに「連帯」ばかりが叫ばれ、フェミニズムへの批判がしづらくなるという状況が浮かび上がったともいえる。だって、批判をすれば「対立を煽る」という名のもとに、押しつぶされたり、切り捨てられたり、「外部」扱いされたりしてきたのだから。

今後女性学会がどうこの問題を考え、何を具体的にしていくのか。あるいはまた、「女性学を守る」という名目のもとに、何もしないでうやむやになっていってしまうのか。注目したい。また、私は今回、たまたま偶然この会に参加でき、報告者の皆さんやその後の議論も含め、貴重な機会を得たわけだが、こういう偶然がなくても、必ずしも大会や研究会に参加できないすべての会員にこのような重要な批判が存在したということくらいはしっかり伝わるような、開かれた会のあり方が必要ではないかと思う。