女性学会レポートその2−学会シンポとワークショップ

レポート第二弾は、学会シンポ「男女共同参画格差社会」と、それについての翌日のワークショップについてである。両方とも司会は船橋邦子さんと伊田広行さん。報告者は、海妻径子さん、皆川満寿美さん、小山内世喜子さんの3人だった。

トップバッターの海妻さんは、「格差社会」について書かれた本や論文の類の分析だった。細かいレジュメを出され、よく調べておられるなあとは思ったが、これと「現実」がどう絡まるのかわからなかった。言説分析ばかりで現実に関する議論がないままに、「格差」について語るということの限界が見えたともいえる。「格差」について書かれたもの、というのは、ほとんどが実際にその「格差」を経験していない、いわゆる「エリート」たちのつくりあげた言説が大部分なわけで、そこには当時者の姿、地域の現実などがあまりに見えづらいのだ。また、ここで海妻さんが言われていた「格差」はあくまでも都市部における話のように聞こえ、これと青森や海妻さんの地元である岩手などの地方での格差問題がどう絡んでくるのかもわからなかった。

皆川さんは、2005年以降の男女共同参画政策の推移と、とくにワークライフバランスに関する政策の動きに焦点をしぼり話されていた。
そしてバックラッシュの動き(主に国会レベルのものと、議員や保守派知識人らの発言など。比較的最近話題となった、つくばみらい市愛媛県松山市などいくつかのバックラッシュの事例にも言及されていた)も関連づけていた。だが、id:discourさんのエントリにもあるように、ほとんどがマスコミ記事やインターネットなどで手にはいる情報に基づいた、全国的なおおまかな動きについてで、地域での動きを綿密に追ったといったものではなかった。

皆川さんの、福田は安倍や、ポスト福田といわれている麻生などよりはマシなので、福田にはもうすこしいてほしい、だから反対するばかりでは、政治的リテラシーがないといっているようなもの、というようなご発言があったのだが、たしかに安倍よりは福田は少しはマシかもしれない。だが、男女共同参画だけ少しやっていれば今の自民党政権のままでいいのか、社会変革をめざすはずのフェミニズムが、これではまるで保守みたいだ。もうひとつ気になったのは、皆川さんが「今日は学者としてではなく、アクティビズムの人としてきている」と繰り返されたことだ。私自身も学者と運動と両方する人だけれど、そんなに便利に自分の「学者」ステータスを運動面からも切り離せるとは思えないし、切り離すべきでもないと思う。この二つはそんなにきれいに切り離せる・切り離すべきものなのだろうか?便利に切り離すことで、「学者の世界」はそのまま温存され続けるのではないか。

最後に話された小山内さんは、青森県の実情として地域格差や厳しい労働状況などの統計をご紹介され、それは勉強になるものだった。だが、これらデータに現れた厳しい現状と、「性別役割分業意識を変えることが格差社会に歯止めをかける」とした小山内さんの前提および結論が噛み合っていなかったように思う。青森県の格差の現状は性別役割分業意識を変えるだけで解決されないことはあまりに明らかだからだ。「青森県民の意識の低さ」というような表現もでてきたが、「県民意識」が地域格差の現状を誘発している主要要因ともいえないだろう。

おそらく、小山内さんに青森代表として地域の実情をお話いただき、ほかのお二人が全国的状況を話されるという分担だったのではないかと想像するが、せっかく青森でやっているのだから、一人だけに青森を代表させず、せめてもう一方くらい青森の状況についてお話いただいてもよかったのではないだろうか。司会が個人的意見をいわれる時間がかなり長かったし、そこを短くすれば、もう一人の発言は十分に可能だったのではないかと思うのだが、、。

全体として気になったのが、「プレカリアート運動とフェミニズムの連携」とか「プレカリアート運動に関わるいわゆる「負け組」男性と主婦との連携」「男性のワーキングプアと女の連帯」などといった表現が頻繁にでてきたことだ。海妻さんは、最近この連携というのは以前ほど簡単だとは思えなくなったといった趣旨のことを述べておられたが、そもそも「連携」という問題をたてること自体に私は違和感をずっと感じたままだった。「たとえばプレカリアート運動とフェミニズムの連携」といってしまったとき、「プレカリアート」の問題はフェミニズムの外部におかれてしまうのではないかと思うからだ。「男ワーキングプアと女」にしても、「女ワーキングプア」の問題も、「女」や「男」カテゴリー外におかれる人たちの問題も見えづらくなる。そして、「男ワーキングプアと主婦の連携」に至っては、苦しい状況にある他者に対して、上の立場からモノを言っているようにも思えてしまう。「フェミニズム」からさまざまなものを除外してきた歴史や現状への反省的視点がないままに、そして多様性に鈍感なまま「フェミニズム」を語る状況下において、「連携」や「連帯」を語ることの怖さを感じたのだった。

それを端的にあらわしたのが、シンポの最後に唯一の会場質問としてでてきた、障害者女性からの質問とそれへの反応(の欠落)である。女性として、障害者として二重の差別に苦しんでいる障害女性には、現在の「男女共同参画」政策やセンターには居場所を感じられない、というものだ。ひじょうに重要な問題提起だったにも関わらず、時間がないという理由でほとんど議論もなく終わってしまった。唯一答えられた海妻さんも、結局プレカリアート運動の中に障害者女性に指摘されたような問題意識が欠落しているといった指摘でおわり、あの場でいちばん重要だったはずの、そしてこの方の質問の核心だっただろう、男女共同参画フェミニズム女性学の中に障害者女性の「場所」がないと感じられていることへの言及はないままだった。
このような重要な質問がでた場合、少しはフレキシブルになり、5〜10分くらい延長してもよかったのではないか。最後の懇親会の時間を短縮すればよいのだから。それとも、男女共同参画女性学そのもののあり方への痛烈な批判になっていたこの質問にあえて言及したくないから、(意識的にではないかもしれないが)うやむやのうちに慌しく終わらせてしまったのだろうか。この問題は、総会よりも、そして当然ながら懇親会よりも明らかに重要なものだったと思うのだけれど。

この、男女共同参画的な「女性の自立」とか「エンパワーメント」とかいう概念そのものに鋭く切り込んだ質問の後で、司会のひとりの船橋さんが「自立した市民」をつくる場所としてのセンターとかいうご発言をされていたのが、なんとも皮肉に感じられた。翌日のワークショップの際にも、船橋さんは「ひとりひとりが力をつけていかないと」などと連発されておられた。そんなに市民(とくに女性)は力がない、というご理解なのだろうか。

翌日のワークショップ。青森など地域が抱える問題の議論が前日のシンポで弱かった、という趣旨の発言をしていた人たちが私以外にも何人かおり、地域に根ざした議論の必要性も訴えられていたのだが、議論は深まらずに終わった感が強い。地域に根ざした議論を、、という地元センター関係者などと、長々と発言する学者たちの興味関心がうまく噛み合わない印象があった。
格差社会」の中でも末端におかれることが多い、外国籍女性労働者問題などがすこんと抜け落ちていた問題について、最初に全員が感想を述べた際に私は言ってみたのだが、結局その問題はスルーされて終わってしまった。
大きな産業がないという青森には、外国人労働者たちはまだあまりはいっていないのか、それとも「男女共同参画」の枠外の問題として扱われてしまっているのかなど、知りたかったのだが。
そして、ワークライフバランスが恵まれた人たちの世界のことだという視点はでてきているのに、ワークライフバランス(しかもおそらく都市部の中流階級について)に議論がどうにも流れがちだったと感じた。貧困に苦しむ女性問題としては、シングルマザーのみは指摘されていたが、「ケア労働を担っているから」ワークライフバランスと関係あるといったことでででてきていたようだった。あるいは、シングルマザー問題だったら、女性学会にでている人たちに関係する問題だったからだろうか?外国人労働者セックスワーカーなどについては話題にもならず、会場質問ででてきた障害者女性の問題提起についてさえも議論は結局深まらないままに終わった。

このワークショップでは、司会がその場の議論の流れに任せるままでほとんど論点をまとめたりされないので、結局何を話し合ったのかわからないまま、まとまりつかず終わった感が強い。私も発言したいなあと思いつつ、タイミングを失い、最後には発言する気もうせてしまい(うまくタイミングはかれなかった私も悪いのだけれど)、消化不良感が残った。