裁判支援運動をするのは何のためか?

これまで、ファイトバックの会世話人会の実質上の分裂(というか、謝罪チームの排除)に至るまでの経過について、ブログやネット問題を中心として書いてきた。この件から、裁判支援運動そのものの問題もみえてくるので、今回はそのあたりについて書いてみる。

ファイトバックの会の場合、原告の支援運動への関わりがひじょうに大きい。会のブログ更新が原告だということは書いたが、これ以外にもHPも原告の指示により更新されている面が大きい。(原告が頻繁にMLで、これを掲載してください、などという依頼を流してきた)。ML投稿も原告が依頼して世話人が流すケースがかなりあった。(例えば今現在、会のMLに世話人から流されているメールの多くは、原告がこういう内容のメールを流してください、と依頼している可能性が高いと思う。今までがずっとそうだったから、、、)会のニュースレターも、最終チェックは原告が行ってきた。そのほかにも、集会開催などファイトバックの会の運動のすべては、原告の指示によって動いている面が大きく、細かい指示だしをしてきている。

以前、家永裁判を長年支援した方のお話を伺った事があるが、あの裁判闘争があれだけ長く続き、支援団体もずっと続いたことの大きな理由として、家永さんが支援運動にはタッチせず、原告としての役目を全うした事が大きかったと言っていた。ファイトバックの会は、これと正反対の状況にあるといえる。原告が支援運動のすべての側面に関わってきているのだ。代表はメールをしないため、会や世話人会で起きていることをリアルタイムでフォローしているとは言いがたい。副代表は東京在住で、世話人会にはほとんど参加していない。実際の運動に関する具体的な指示だし、という役割は代表も副代表もほとんど果たしていないのだ。事務局的な事務作業役割に関しては、謝罪チーム員で今回の謝罪をめぐるごたごたのために世話人をやめた人が、今まではかなりの部分を担ってきていた。

また、支援団体と弁護団との関係性の問題もある。第一に、弁護団会議に、原告しか出ておらず、支援者はほとんど出てこなかったのだ。私は一度だけ、バックラッシュについての議論の際に(まだ提訴前の時期に)弁護団会議に出たことがあるけれど、他の支援者で出た事がある人はいるのだろうか。私が聞いてきた限りでは、あまりいないと思う。弁護団会議に出席してきたのが原告だけということは、弁護団発で支援者に何らかの依頼がある場合、すべて原告を通しての依頼になるということだ。要するに、弁護団情報も、支援者団体の情報も原告が一手に握っており、間にたって支援者に指示出しをする役割を果たしてきたということになる。
法廷後には、いつも弁護団による支援者むけの解説会というのが開かれるのだが、これも弁護団に一方的に説明していただく、という構図だった。6月の法廷の後に私も参加した裁判の後の弁護団による解説会、というのも、一方的にお話を拝聴する場という位置づけのようであり、「素晴らしいです」という趣旨のチアリーダー的発言以外は、参加者からの発信や疑問の提示、相互コミュニケーションが期待されている場という印象ではなかった。(にもかかわらず、6月の会の際に思い切り疑問を提示してしまった斉藤正美さんは、おそらく場の雰囲気を壊してしまったことだろう。。)

今回、弁護団と謝罪チームは謝罪の件に関して直接(原告を介さずに)連絡をとったわけだが、その中で、支援団体の役割は原告を癒す事だという発言が弁護士からでたらしい(私はそのミーティング自体に参加していないので、参加した人たちから聞いた話だ。)
これを聞いたとき、とんでもない間違いだと思った。そんなに癒しが欲しいなら、マッサージでもカウンセリングでもいってほしいものだ。支援者は原告個人を癒すために支援運動しているわけではなく、裁判自体の主張に共鳴して、運動していると思っていたのだが、、また、性暴力やDV被害者支援の論理がひどく単純化された、「原告の思いにこたえることこそが支援者」的な価値観が使われている面もある。原告が自らの裁判の過程で人権侵害をしても、おかしな方向にいっていたとしても、ひたすら原告の思いにすべてこたえるのが、それをサポートするのが労働裁判の支援者なのか?私はそれは違うと思う。

謝罪チームと謝罪反対派世話人では、「何のために支援しているのか」そして「何のための裁判なのか」という理解もずれがあったのかというようにも思う。
すなわち、運動としての裁判なのか、勝つための裁判なのかという裁判なのかのズレである。
私は運動だと思っていた。正直いえば、勝つのは難しい裁判だろうと提訴のときから思っていたが、たとえ裁判に負けたとしても、非常勤雇用の問題、およびバックラッシュについて法廷にもちこんだことに意義があり、裁判を闘うこと自体が運動だという理解だった。運動なのだから、その過程で人権侵害など犯してしまうのはとんでもないことで、運動の精神とも反するだろう。こういう間違いを犯してしまったのだから、それを認め、真摯に謝罪するのは当然であり、そうでなければ運動とはいえないし、フェミニズムともいえない、というように考えた。

しかしながら、原告および直近の現世話人(ニュー世話人会MLのひとたち)や支援者は、予想以上に「勝つ」ことにこだわっているようだ。「勝つ」ためには被告側証人の誹謗中傷をMLや、公開のネットという場でして(それは「勝つ」ことにはまったくつながらないどころか、本当はマイナスだと思うのだけれど)、謝罪問題についてもとにかく裁判が優先なので、裁判が終わるまではと延期し続けたり、放置する、というスタンスでいいのだろうか、とうい点で、大きく考え方がずれていたと思う。裁判の闘い方として「勝つ」ためにはやり方を問わないというようなことも、いろいろ謝罪問題を通してみえてきた面があった。こういうやり方で、この裁判に勝ったからといって、私にはそう意味があることとも思えなくなってしまったし、人権を守るという運動としても、意味があるとは思えなくなってしまった。だから会をやめた。

一部の支援者がよく「原告はわたしたち女性の代表」というようなことを述べているが、違うだろう (非常勤で週3日勤務で月30万円の給料は「女性の代表」とはほど遠い状況だ。「わたしたち女性」という言い方からも、マジョリティの奢りがみえる。)そして、自分は敗訴となっても、この裁判で問題提起をするのだ、裁判を闘うこと自体が運動なのだという意思は、「何が何でも勝ちたい」という思いが強すぎて、見えづらくなっている。非常勤雇用のひどい実態を何とかせねばならない、雇い止めはおかしい、バックラッシュもなんとかしたいという主張に共鳴する部分があったからこそ支援者になったわけだが(それは、必ずしも私が原告側弁護団の論理に説得されているという意味ではないが)、裁判に勝つためには何をやってもいい、証人の人権を侵害してもいい、とはまったく思わない。

会のMLに、勝訴をめざして、心をひとつにして原告や弁護団を励ませ」的な投稿が現世話人や、世話人および原告に近い関係にある有力支援者からいくつかあったようだ。しかし、まるで標語か呪文のように「勝利をめざして」といっているわりには、裁判の内容についての議論も一部の会員をのぞいてはひじょうに少ないという不思議な会でもある。お祭り系のイベント(提訴した12月時期に毎年のように行われるイベントや、「人形の家」イベントなど)や、一方的に弁護団や原告のお話を伺いましょう的セッティングの集会はよく行われるが、裁判について会員どうしで議論をする機会というのは一部の人たちをのぞいて、少なかった。また、被告側の書面を読んでいる人たちが、支援者の中にいったいどれだけいるのか。かなり少ないだろうと思う。原告、被告側両方の書面を見ない限り、裁判の全貌もつかめないと思うのだが、原告側書面だけを読み、原告側の説明だけを聞き、「原告や弁護団がこういっているのだから正しいはずだ」「偉い弁護団のいうことだから正しいに違いない」「原告や弁護団を信じるのが支援者の役目だ」という方向にいってしまっている世話人や有力支援者が多そうだと思ってしまう。(実際そういう趣旨の会のMLへの投稿もあったし。。)そして、会のあり方について会員どうしで話し合う総会の類いも、開かれたことはない。

また長くなってしまった。。次回も、運動的な問題について、「フェミニズム運動」という観点からもうちょっと書く予定。