運動内の役割分業とフェミニズム、リブ

今日はすてっぷ裁判の控訴審の日。弁護士の解説会、拡大世話人会といういつもの流れもあったことだろう。ご出席された方がいらしたら、レポをぜひコメント欄でもトラバでもお願いしたいところ。よろしくお願いします。

さて、謝罪問題に関してなのだが、「会が謝罪すると原告の裁判にとって不利だ」という謎の論理がニュー世話人たちの間で幅をきかせていた。本来、支援者の会と原告は別物のはずなのに、原告があまりに会運営に関わりすぎてきたためだか、会と原告の区別がつかなくなってしまっているようなのだ。

例えば、ニュー世話人会MLでのKMさんの発言。

結果として、会として謝罪文を出さなかったことは、不幸中の幸いであり、大きな手柄であったと思います。ひとつ難関を突破したといえるかもしれません。これからも、この調子で確かに前進してゆきましょう。

私は会としての謝罪に反対です。弁護団の先生方も謝罪をすることは適当ではないというお考えのようですし、謝罪をしてはいけないと思います。

会として謝罪をしないことがよかった、手柄だと言っているようなのだが、この人は個人として謝罪文を出しているし、原告が個人として文章を出すことに反対した形跡もない。裁判のことを考えるなら、まず率先して、支援者の会が責任をとる形で会として謝罪文を出すのがふつうだと思うのだが、この会の場合は逆のようである。ついでにKMさんは勘違いしているようだが、弁護団はむしろ、会として謝罪したほうがいい、という立場だった。
そもそも、会として謝罪をすることは、裁判自体には何の影響も与えないはずだ。支援者の会と原告とは違うのだから。しかし、この区別があまりにつかないくらい、原告=会、のような状態になってしまっていたところが、ファイトバックの会の失敗であり、この謝罪問題がこんなにこじれた一因でもあるように思う。

なぜこんなに原告頼りの会になってしまったのか、、と考えると、ファイトバックの会の母体的役割をはたした、2つのフェミニズム運動系統の、役割分業問題がみえてくるように思う。
ひとつには、女性議員を出す運動、そしてそれとのつながりが深い、いわゆる「男女共同参画」運動だ。id:discourさんが当ブログのコメント欄で指摘されていた。

えっと、このブログ問題エントリーとはずれるんですが、この間のエントリーで書かれていることは、原告や世話人が「裏で操る」というコントロール方法なのかなとも思ったりします、で、このやり方は地方の市民活動の周辺にいるわたしにはデジャビュという感じがします。ファイトバックの会を支えてきた方たちは地方で女性議員を増やす活動を積極的にやってこられた方と重なります。女性議員経験者も少なくないはず。こういったやり方に違和感を感じないでいられる方たちが女性議員をだそうとされているとしたら、女性議員を出す目的って一体なんなのだろうと疑問に感じます。この間のことを見ていて、一人原告というより、女性議員を出す運動やその周辺の男女共同参画運動などについても波及する問題だと思っています。

この女性議員を出す運動、というのは、1992年に設立されたフェミニスト議員連盟が積極的にすすめてきた運動で、私が事務局員としてかかわった、女性連帯基金の運動もこの流れにあった。そんな関係で、この運動がどういう人たちによって担われているかを見てきたわけだが、(全員ではないけれど)地域の活動主婦的な人たちが多く、中心となっていた運動だったと思う(少なくとも私が連帯基金に関わった90年代終わり頃は明らかにそうだった。その頃連帯基金の運動を通じて知り合いになった人たちが、現在のファイトバックの会の中心的会員として多くいる)。働く女性は、議員を出す運動に関わりづらいという状況もある。(実際、選挙運動は日中に行われることが多く働く人はなかなか時間を費やせない状況があるし、地方議員に出ようという決断そのものを働く人がするのは難しい)。この層が男女共同参画センターなどを拠点として、地域で「男女共同参画」活動しているケースも多い。

最近フェミ議連の合宿があったという報告をJANJANでみたので、フェミ議連のウェブサイトをみてみた。合宿でのシンポジウムのコーディネーターが原告になっている。昨年はどうだったんだろう、と見れば、昨年も同じく原告。一昨年は、、とみてみると、原告はパネリスト。つまり、常に原告は壇上にいる立場というわけだ。思い出してみれば、女性連帯基金時代に行ったシンポでも、常に原告は壇上にいた。法廷の後の解説会でも、原告が司会のことが圧倒的に多い。
これでは、ほかに人材がいないのか、と思われてしまうだろう。そして、女性連帯基金でも、いわゆる「若手」や、事務局仕事をしている人たちは、大規模イベントでは常に裏方の役割を担わされていた。

そして、今回のファイトバックの会の場合も同じ、フェミニズム運動内における役割分業問題があると思う。裏方は常に裏方であり、指示だしは多くの場合、原告だったのだ。しかも、指示出しをする側は、人に何かを言わせたり書かせたりして、discourさんが言われている「裏で操る」方法をとってきた。文章を書く役割も常に特定の人たちが担ってきており、今現在、会員用のMLにニュー世話人たちが投稿をあまりしないことの言い訳として使われているらしいのが、書くのが苦手、表現が苦手といった理由である。

しかし、固定化した役割分業って、フェミニズム運動が否定して、乗り越えようとしてきたことではなかったか。常に裏にいるのが女役割、みたいなところを、これでは運動の現場で再生産していることになる。そして、常に表にでたり、指示をだしたりしている側が男、、みたいな位置づけになってしまう。

SASAさんが当ブログのコメント欄にて、支援者は原告に「癒されたい、元気をもらいたい」という人たちが多かったのでは、、というご発言をされていたが、確かにそうだと思う。
会のお祭り系イベントや傍聴に参加し、「つながりたい」「元気をもらいたい」という欲求を満たして帰って行く、そんな感じがしてしまうのだ。以前「雑感」ブログのほうに「『元気をもらう』という言葉」というエントリを書いたが、ここで書いた違和感が、ファイトバックの場合、まさに当てはまってしまうように思う。

そして、原告のカリスマ性を求めてそういうひとたちが集まり、原告から「元気をもらえた」となることで、ファンクラブ状態が加速していってしまう。原告が何をいっても、どんな行動をしても受け止め、それに従うことこそが支援者、的な価値観となっている人もいるようだ(そういう趣旨の個メールを支援者からもらったこともある)。間違えたら指摘するのが本当の友人であり、支援者ではないかと私は思うのだが。

もうひとつ、この会の母体的、中心的役割を果たしているのが、ある老舗リブグループである。70年代にあったリブ新宿センターが、 その理想を追求する姿勢はあったものの、現実では役割分業や権力関係もあった、ということは、書籍など(例えば『全共闘からリブへ』収録の座談会)において書かれたりしてきているが、こちらのグループの場合、長年続いているぶん、権力関係や役割分業がより固定化し、強化されてしまっているようにも感じられた。(それに対して反省的に話し合ったり、書いたりということもないようだし、内部にいる人たちはとくに異論をもっているようには見えない。)閉じた世界でずっとそこで安定して和気あいあいとやってきたのか、、という感じなのだ。実際、ファイトバックを通して一緒に運動をしたことで、「リブ」の名前の陰に隠れて外からは見づらかった問題が見えてきてしまったようにも思う。

ニュー世話人会MLでも、「楽しくやりたい」ということを強調する趣旨の投稿がみられた。例えば、Oさんは「楽しくなくっては続きませんもんね。私たちは今のスタンスで楽しくさらっとやりすごしましょう。」「うっとうしくて、楽しく、こつこつとやっていく人間にはとても嫌」などと発言していたし、KMさんは「気持ちよく支援活動が出来る体制つくりが一番。」と述べている。しかし、運動は常に楽しいものでもないだろうし、今回のように自分たちが間違いを犯した場合はとくに、「気持ちよく楽しくやりましょう」ではすまないだろう。何でも楽しくやりすごせ、では、単なる無責任体制ではないのか。いつもの仲間で内輪で楽しく、ということを強調しすぎるあまり、誰も(代表ですら)会の外部に対して(謝罪チームへの誹謗中傷に関しては、内部問題でもあるが)責任をとらない、とろうとしないという状態になってしまっていた。

今回の件を通して、そもそも、リブとは何なのかについても考えさせられた。70年代には重要だった、女の自己解放などの概念があった。その重要性を否定するものではないし、現在までつながる概念だとも思う。だが、70年代のその時に「解放」されて以来、その時の姿こそが素晴らしいということで、かえって今度は変化を拒むようなことになってしまい、自分や自分たちの運動の絶対的肯定のようなことになってしまっていないか。自分たちだけが「正しい」運動をしており、「リブというのはこうあるべき」という信念ーというか、思い込みーも強く、そして「若い人」(というのはこの業界では40代でも50代でも当てはまってしまうのが恐ろしいのだが)は常に「育てる対象」であり、「自分たちが担ってきたリブ」について反論するべきでもなく、異論を提示するべきでもないし、ひたすら大人しく学んで、便利に動いてくれという感じすらする。今回の件で、自己反省や検証の視点の欠落をひしひしと感じてしまった。リブについて70年代へのノスタルジアで語るのみならず、もっと現在につながる動きとして、反省的検証も必要なのではないかと思った。もちろん、この問題はリブ全体にあてはまるものではなく、この特定の「リブ」たちの問題にすぎないかもしれないが、、