中ピ連と劇画『激突!中パ連』

気づいてみれば8月以降更新していなかったこのブログ。ひええ。ぼちぼちまた更新再開していきたいものだ。

今、家のクローゼットの中にはいっている、資料類がつまった段ボール整理をしているところなのだが、そこで埋もれていたこのマンガのコピーを発見したので、ちょっと紹介してみる。

劇画『激突!中パ連』。週刊明星に1976年1月から連載されていたマンガだ。作者名としては<肌絵道場>玄海つとむ、加藤英樹、青木美恵子、と書かれている。
大宅壮一文庫で何年も前に、リブや中ピ連関係の資料を当たっていたときに偶然発見したもの。思わずお金がもつだけコピーはしてみたものの、何せ大宅壮一文庫のことだから、コピー代がバカ高いので、連載すべてのコピーはならず、途中で脱落したものだ。それでも、全部で11回分はなんとかコピーしてもっているのだが、連載がいつまで続いたのかは調べたはずがもう忘れてしまった。(次の機会に残りをコピーしにいこうかな。)

中パ連のモデルは、明らかに1972年に結成された「中ピ連」(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)。

このマンガでは、中ピ連そのものの活動というよりは、74年8月に中ピ連がつくった「女を泣き寝入りさせない会」の活動をモデルにしている。資料日本ウーマンリブ史では、「女を泣き寝入りさせない会」について以下のように解説している。

女が泣き寝入りしないように、孤立している非力な女の応援をする会の誕生だった。弁護士すら、当時は女の味方ではなかった。暴力をふるう夫、一方的に離婚したがる男の会社に、ピンクヘルの女たちが抗議デモをする。もちろんテレビカメラもついてくるので、胸に覚えのある男たちは震え上がった。(資料日本ウーマンリブ史II p.244)

当時の女性週刊誌をみてみても、この「女を泣き寝入りさせない会」についての記事数はかなりすごい。1975年の年末の紅白歌合戦に、愛人などに対してひどいことをしたといわれる男性歌手たちを糾弾するために殴り込みをかける、などという報道があったりもした。(結局、中ピ連は現れなかったが。)1977年、参議院選挙に女性党として出馬し、それが失敗に終わり勢いを完全に失った中ピ連だったが、このマンガが連載された76年1月という時期は、紅白報道の直後。もっとも中ピ連がマスコミで騒がれていた時期と重なる。

さて、肝心のマンガだが、悪い男にだまされた女が「中パ連」に相談にくる。そして、中パ連がその悪い男どもに復讐をしてやっつける、という内容だ。要するに必殺仕事人に近い内容。悪い男は死んでしまうこともあれば(中パ連は直接の手をくださず、勝手に事故で死んでしまったり、自殺してしまったり)、単にひどい目にあわされることも。

連載初回にでてくる、中パ連の事務所と楽しそうな(?)メンバーたち。ソファーに座っているのが中パ連リーダー。榎美沙子さんをモデルにしているのだろうなあ。

男たちが女たちにするひどいこと、というのは、レイプ、強制的な堕胎、ゆすりたかり、お金のだましとりなど。まあありがちなパターンなのだが、時代を感じさせる表現もあったりする。

「悪徳教師の巻」では、悪徳美術教師が新婚の女性に対して、昔レイプしたことをネタに脅しをかけるのだが、最後のコマの漢字がシャボン玉のように浮いているのがなんかすごい。

これもちょっと時代を感じる。

結局この悪徳教師、中パ連はこらしめるだけのつもりだったのだが、逃げようとして、自業自得で事故で死んでしまった。
ちょっと同情気味のメンバーに対して、厳しいリーダー。

当時の中ピ連やリブ団体、こういうイメージもたれていたのかなと思わせる一コマだ。本当は男たちに同情的なのに、無理に鼓舞して「男は敵だ!」とやっている、みたいなイメージ。
ちなみに「中パ連」のひとたちは、「中ピ連」の本来の中絶などに関する主張とはかなりズレた発言をしていたりもする。中ピ連本体の主張については、よく知らずに(気にもせずに?)描いていたと思われる。

この作者の玄海つとむさんは、ググってみたら、この時代にエロ劇画家としてそれなりに活躍していた人のようだ。
「愛の狩人」「牝犬を姦る」なんてタイトルのマンガを描いていたり、「スケベ派をうならせる巨匠たち!」なんて評価をうけていたりする。「肌絵道場」という著者グループの名前もちょっとすごいし。
ちなみに、この中パ連マンガ、エロシーンが小出しにはいってはいるが、決してエロ劇画ではない。
この玄海つとむさんが、いったいどういう経緯で「中パ連」マンガを描くことになったんだろうか。興味深いものがあるなあ。

いづれにせよ、日本のフェミニズム団体で、連載劇画のモデルにまでなって「週刊明星」みたいな週刊誌に掲載された団体というのは、おそらく後にも先にも中ピ連だけなのではないかと思う。ちなみに、wikipediaによれば、この時代の週刊明星は芸能週刊誌としてかなりの部数を誇っており、昭和40年代には100万部突破、1977年の段階でも『週刊プレイボーイ』に次ぐ65万部の部数を誇っていたらしい。