WANと裏方日記「沈まぬ太陽」映画評への違和感

せっかくの機会なので、ホットココアさんの「沈まぬ太陽」エントリに感じたほかの違和感もメモっておく。

なんで、80年代終わりからの二度目のナイロビ行に鈴木京香さんは一緒に行かなかったのかなあ?
ということ。
子どもたちも大きくなって手もかからないのに。
お仕事を持っているわけでもなさそうだったのに。
一緒に行かなかったのはなぜ???
1980年代後半にアフリカへ赴任した友達家族がおり、あるいはアフリカ研究者を友達に持つ私たちとしては、むしろ鈴木京香さんがナイロビに行かなかったことの方が不思議だったのでした。
長年暮らして生活習慣とか知っているダンナが一緒なんだから、ずいぶん暮らしやすいと思うのになあ…

私自身は映画はみていないので、映画自体の評価はできないが、それにしても、女性が夫についてアフリカにいかないで日本に残るとする理由は別に「仕事」と「子ども」のみである必要はまったくないだろう。それ以外の理由だってたくさんありうるだろうに。「長年暮らして生活習慣とか知っているダンナが一緒」だから「ずいぶん暮らしやすい」とも限らないはずだし「夫の赴任についていくのが普通の姿」というような前提がホットココアさんの文章には見え隠れするような気がどうにもしてしまうのだが。
それと、「ケニアでだってサファリ三昧でしょ?」ともいわれるが、これもびっくり。海外で生活するということ=遊び三昧、って思っておられるのだろうか。現実にそのコミュニティで「生活」しなくちゃいけないのに。そして、違う環境で生活するということは、相当にストレスがたまることでもあるのに。

そして、twitterでの私のつぶやきに対して、実はWAN本家の映画評もけっこうすごいという反応があった。そこで見てみたら、本当にすごかった。すでにtwitterでもつぶやいたことだけれど、記録がわりにこちらもメモ。

おっさんという人種は、なぜつまんない出世競争に汲々としたり、あるいは仕事しなくていいからそこにいて、といった屈辱的な状況に 耐えてまで会社にしがみつくのか、誠に疑問に思っていた

この冒頭の文章から絶句なのだが、「しがみつく」といういわばネガティブな言葉を使って、ひとつの職場で必死に闘い続けている人たち(組合活動をもちろん含む)そのものを軽視してはいないか。そして、「おっさんという人種」とこれまた見下しているような表現を使いつつ、中高年男性のみの問題のように書いているけれど、例えば「屈辱的な状況」に耐えてひとつの会社で必死に耐えて頑張っている女性たちだってたくさんいる。会社をやめればいい、といってすんなりやめられる人たちばかりではなく、むしろしがみつかざるをえない状況の人が多いのではないか。むしろ企業において男性より「屈辱的」な状況におかれている女性たちは、正規、非正規雇用双方に多いことだろう。それでも正社員ならその仕事に「しがみつき」、非正規なら正社員としてその会社に残りたい、しがみつきたいと必死に働き、そしてそれができる状況をつくりだそうと運動をしてきた女性たちは多くいるはずだ。
ついでだが、「鈴木京香みたいなキレイな奥さん」という箇所も、「キレイ」かどうか関係ないだろうと思うぞ。「それこそ何十年も愛人続けるなんて、性格が卑屈になるだけだろう。」に至ってはもうどう反応したらいいのか状態だ。

WANの映画評って普段ほとんど読んでないのだけれど、たまに読んだらびっくりしてしまった。同時に、フェミニズムのなかで労働問題への議論が、まだまだ圧倒的に足りていないのではないかとも思わざるを得なかった。