フェミニズム運動における世代間の権力関係と相互批判の重要性

昨日公開したばかりの「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイトでは、サイトづくりに関わった各自が「運動をふりかえっての個人的な反省点」として書いている。その中の斉藤正美さん(id:discour)が、フェミニストとしての自分自身の問題として、ファイトバックの会の運動について振り返っている。

その中でも以下の部分が私にも考えさせられるものだった。

  • 80年代以降の女性学、特に江原由美子氏のウーマンリブ史観により、リブ運動を最高の運動と見なすイデオロギーが浸透すると同時に、後続の運動がないことにされてきた。
  • 原告をはじめとするリブ世代や団塊の世代フェミニストも、後から来た人にとっては、「歴史的な存在」である。リブ世代や団塊の世代フェミニストは、もっと自らを批判的に見たり、批判を受けるような仕掛けが必要だと思った。そうしないと、いつまでも、リブ世代があがめられ、批判されないまま運動に君臨するという状態が続いていくように思う。

(中略)

  • グループ内での行動のあり方については、グループ内の結束が強ければ強いほど相互批判は必要であると思った。とりわけ、グループの代表やより権力をもった人に対し、自由に物が言える状況をつくることをやってこないといけなかったのだと思った。どの業界であれ、「天皇」や「女王様」というような批判がしづらい存在をつくってはいけないと思った。

江原氏のウーマンリブ史観については、以前このブログでも「女性運動史をめぐる『江原史観』の問題とその影響」としてエントリ化したことがある。女性学の誕生とともに「主体」が女性学とかわっていき、運動が下火化していったとする歴史観であり、その後にも存在した運動がなかったかのような扱いになっている。斉藤さんが指摘するように、70年代はじめのウーマンリブ時代が「最高の運動」とみなされがち、という傾向もある。その裏には、リブ運動を振り返ることはできていても、その批判的検証が今でもできておらず、しづらいという状況があるのだとも思う。

リブ世代がいつまでも「あがめられ、批判されないまま運動に君臨する状態が続いていく」ことの限界を表した一例に、ファイトバックの会のケースはなったと思う。実際、謝罪に反対した側の多くがリブ、団塊世代であり、謝罪をすすめた側の多くは下の世代だった。もちろん世代だけで区切るわけにはいかないのだが、ひとつの運動内でも、リブ・団塊世代とその下の世代との、世代間の議論がうまくいかなかった一つの事例だと思う。

かとうちひろさんが同サイト内の個人的な反省点の中で、「上下関係に慣れてしまい「若い人(=責任のない立場)」に甘んじてしまっていたと思います。」と述べているが、「若い世代」とされる人たち、リブ世代以下の人たちの側も、「上下関係」に慣れてしまわないよう、常に意識しておくべきかもしれないと思わされた。

そして、上の世代の中でも、「原告」や「弁護団」などの批判がしづらい存在をつくってしまったし(「弁護団と支援者の関係性」参照)、斉藤さんが「地方在住会員の役割と中央/地方の関係性の問題点」という別記事で指摘しているように、中央/地方の関係性もトップダウン型だという問題点があった。

これらは、とくにファイトバックの会に限定された問題ではなく、他の多くのフェミニズム系運動にも当てはまる面があるのではないか。本来、そういった権力関係をつくらないことがフェミニズム運動の特色でもあったはずなのだが... 運動内部で忌憚のない批判や議論が足りていないことに、危機感を覚えている。