相変わらずの伊田広行氏の曖昧すぎる「ジェンダーフリー」関連の批判

久しぶりに伊田広行氏のブログを読ませていただいたら、「チェルノブイリハート」など原発映画関連の議論なのに、なぜか「ジェンダーフリー」への言及がある最近のエントリを発見。で、読んでみたら、どうみても私のことを言及していると考えられるが、相変わらず名指しでの言及でも、具体的な批判でもないというものだった。2009年女性学会のワークショップで、学者なのだし批判や反論するなら、あくまでも具体的に誰の論考のどの部分を指しているのか、明白にしてすべきという主張を私はしたつもりだったのだが... 相変わらず曖昧すぎる批判である。

例えば以下の部分。

ジェンダーフリーを批判した人と同じだなと思う。ジェンダーフリーは、草の根でひろがった概念だ。でもバックラッシュに攻撃されると、学者の一部や行政の多くは、その使用をいち早く辞め、中には「私はジェンダーフリーは一度も使っていない、賛成しない、科学的でない」というような人が現れた。
日本の現状も知らずにさかしらに、「ジェンダーフリーを言うのは、日本のフェミニズムのだめさだ、行政お抱えの運動に過ぎない」、というような人まで現れた。
暇な人はネットなどでもそうしたことをいって、まるで自分が従来の日本のフェミ運動のだめさを超えた偉い人であるかのように言う人がいた。

バカなインテリの典型だった。
存在に意義がなく、ただ自分が正しいと言いたいだけの「子ども」だった。
日本のバックラッシュ状況の中で、自分の言動が誰を利してだれの足を引っ張り、実際に日本社会の性差別状況やフェミ運動にどういう影響を与えるのかが分からない困ったチャンであった。

ジェンダーフリーを使うことが「科学的でない」という批判をしたフェミニストを私は知らない。誰の事だかすらもわからないが、「ジェンダーフリーを使っていない」といった人なら、過去において上野千鶴子さん、id:discour 斉藤正美さん、(『バックラッシュ!』に寄稿している)長谷川美子さん、そして私、と数人は少なくともいる。でもその人たちは私も含め、ジェンダーフリーが「科学的でない」などとは言っていないはずだ。それとも誰か別にそういう人がいたのだろうか。

だが、「行政お抱えの運動」といった批判、あるいは「日本の現状も知らずに」という箇所は、米国在住で、「ジェンダーフリー」概念の行政主導の歴史、という側面を批判した私のことを指している可能性がひじょうに高いように思える。(斉藤正美さんもありうるが。)「日本の現状も知らずに」扱いを、上野さんや(まあ上野さんの理解される「現状」も限定されているだろうとは思うが)、富山で地元の運動にずっと関わってきた斉藤さんに対して伊田さんが言えるとしたら、それはそれですごいと思うが。あるいは、ネット上で伊田さんの批判エントリをいくつか書いている、米国在住のid:macksaさんのことも指しているのだろうか。そのあたりはわからないが、まあ普通に考えて、一番可能性が高いのは私なんじゃないかと思う。

で、私のことを指しているとすれば、「バカなインテリの典型だった。存在に意義がなく、ただ自分が正しいと言いたいだけの「子ども」だった。日本のバックラッシュ状況の中で、自分の言動が誰を利してだれの足を引っ張り、実際に日本社会の性差別状況やフェミ運動にどういう影響を与えるのかが分からない困ったチャンであった。」というのはかなりすごい言われようである。ここまで言うのであれば、もっと具体的に批判してくれないことには、単なる私の人格批判になってしまっていると思うのだが。私の存在に意義がなくて、「子ども」で、「困ったチャン」って言われているようだからだ。伊田さんだって研究者だし、さらには研究者に限らず、運動家でも、一般市民でも、こうした具体性を書いた人格批判みたいなことをするのはどうなのか、今後の議論として発展する要素はないのではないかと正直いえば思う。

とはいえ、2009年の女性学会ワークショップでの議論も実りのある方向にすすんだとは言えなかったと思うし、伊田さんが私に対してお怒りであるとか、批判をとてもしたいとかだったとしても、それはわかる面もあるし、それはぜひご表明していただければと思う。でも批判するなら、ぜひ具体的に、名前を出して、しかも私の主張のどの部分にどのようにご批判をされたいのか、明記していただけるようにお願いしたい。でないと、本当にフェミニズムにおける議論がまったくすすまないことになってしまうように思うからだ。

伊田さんはさらに以下のように続ける。

だが、さかしらなのは嫌いだ。インテリ的な学問の権威に依るのは嫌いだ。偉そうなのは嫌いだ。主流秩序に加担するのは嫌いだ。
ジェンダーフリーでは、そこの感覚が問われた。
ぼくはある程度、意見の異なるものでも、その意図が善意で、まあまあ人権擁護の方向のものなら、主流秩序を揺るがすものなら、批判するより黙っておきたいと思う。仲間の不十分性は補うことがあっても自分だけ正しいとして安全地帯に逃げない。
そしてすばらしい作品には賛辞を送りたいと思う。
ある作品をほめると、『こんな作品をほめるのか』といわれる可能性はいつでもある。それを恐れて、なんでも批判する人に、私はならないようにしたいと思う。
ダメなインテリは、難しい本や映画や音楽をほめ、流行歌や分かりやすい本、俗なものなどをばかにする。
ジェンダーフリーというのは、学問の概念ではないなどという言い方をしない人になりたいと思う。
ええかっこして、小難しいものを小難しく論じる理屈屋にならないでおこうと思う。
美術館で、美術作品を、言葉で解説して見方を誘導するような、つまらない解説や評論をしないようになりたいと思う。
宗教を学問のようにしている人になりたくないと思う。
現場から、自分から、底辺から、僕は考えるようにしたい。
実践に役立つことを基準に判断したいと思う。

私がいつ「インテリの学問の権威」に頼ったのかもよくわからないが(私のことを指しているのかすらわからないけれども)、「ある程度、意見の異なるものでも、その意図が善意で、まあまあ人権擁護のものなら、主流秩序を揺るがすものなら、批判するより黙っておきたい」というご意見には賛成できない。善意だったら批判しないで黙っているということでは、学問も、さらにはフェミニズム運動も発展しないのではないか。逆に善意だろうが意見が異なるのであれば、異論を述べるなり批判するなりして、議論を重ねることで、いろいろなものが見えてくるのではないか。例えば今の私がいる、圧倒的に白人中心のコミュニティという環境で「白人へテロフェミニスト」たちの言うことはおそらくほとんど善意だろうとは思う。しかしながら、マイノリティのフェミニストとしての観点から、異論を述べたり批判せねばならないことなどいくらでもある。「善意」だったら批判しないで黙っているというのは、結局、マイノリティの意見を黙らせることにもつながるのではないか。さらには「主流秩序」に関して、いったい誰がどういう立場にたって、それが「主流」だと決めるのかどうか。何が「揺るがす」ものであると誰が決めるのか。

さらには、「日本の現状も知らずに」という批判。日本の女性学界隈から私に対してぶつけられるよくある批判でもあると思うのだが、「日本の現状」とは、いったい何を指すのだろう。私は最近は1年に2度のペースで日本にいっているが、もちろん大部分はアメリカに住んでいる。しかしながら、「日本の現状」というのも多様であり、いろいろな人たちにとっての様々な現状があるはずだ。住んでいるだけで「日本の現状」がわかっているといえるのか。住んでいないと、それが自動的にわからないことになるのだろうか。もちろん、住んでいないことでわからない面が多々あることは認めるが、例えば私が日本にいく1ヶ月とか2ヶ月の間、あちらこちらに調査に走り回って、さまざまな人たちにとっての「現状」について見聞きしようとしていることは、何ら意味をもたないことなんだろうか。私は日本に普段住んでいないだけで、日本を対象に調査研究していても、どれだけフィールド調査に走り回っても、いつまでたっても「日本の現状」をわかっていない扱いをされ続けるのだろうか。
私はアメリカに住んで長いが、「アメリカ」という国に私が住んでいることで知っている「アメリカの現状」は、アメリカのほんの一部のとても限定されたものでしかないと思っている。「日本の現状」にしても同じことだと思う。そして、例えば伊田さんは、ご自身が住まわれている環境の外で起きている「日本の現状」について、どこまでご理解されているということになるのだろうか。「日本に住んでいる」から、あるいは日本で何らかのご活動をされているから、ご理解されているということにつながるというのだろうか。そのあたりも、具体的に書いてくださらないと、わからないままだ。

勢いでエントリ書いてしまった気がしないでもない。こういう曖昧な批判に反応すること自体がどうかとは思いつつ、でもちょっとこれはとりあえず、あまりにあまりだと思えたので、記録の意味も兼ねて、エントリとしておく。