北原みのりさんの「怒りを鎮める」エントリと、「大義名分や正義」批判に関して

前のエントリで、ツイッター上での北原みのりさんたちとのやりとりに関して、私からみた経緯をまとめてみた。そのやりとりを経て書かれたと思われる、北原みのりさんの「怒りを鎮める」というタイトルのブログエントリなのだが、具体的な流れを書かず、いったい誰のどのようなツイートをさしているのかまったく不明であるため、一連の流れとは別の読み物として読まれていってしまうものにもなっているように思う。
ブログエントリとして書いたものが別のものとして読まれること自体はいつでもありうることとはいえ、議論の当事者がおり、実際の発言もウェブ上に残っている中で、それを一切明示せずに実質上の批判を行う、というやり方については、北原さんなりの配慮だった可能性もあるのかもしれないが、私は正直いって、疑問を感じる。

そしてエントリの内容的には、この一連のやりとりに関して、北原さんは実は怒っていたのだということに気づいたというものだった。正義を振りかざすことの是非というポイントも書いてあるが、それはツイートを通じて北原さんがずっと発言し続けてきたことと何ら変わらない。今回のエントリで新しい内容といえば、「実は怒っていたのだと自分が気づいた」ということだけだったように私は思う。(でも、読む側からみれば、一連のツイートから、怒っているのだろうなというのは、すでににじみでていることではあった。)
そして、その「怒り」の理由を、北原さんは以下のように書く。

私を「ミソジニスト」だと言うのなら、私が女たちとやってきた、バイブを売っていること、セックスを語っていること、女の人に話を聞いて女の人生を書いていくことについて、どう思っているの!!!! どんな思いでスタッフをはじめ私たちが、この社会で声をあげているか、知ってるの? ミソジニーの社会で、せめて女に安全な場所を、女の欲望が決して消されない場所をと思い仕事をしてきたというのに!!!!!!!
なぜこんなに怒ってるかといえばだな!!!! あんたらは私の仕事に唾吐いたんだよ!!!!!!!!!!

「あんたら」という範囲に誰がはいるのか明示はされていないが、「ら」と書かれていることからも、「内なるミソジニー」に関する批判をした@さん(「木嶋佳苗被告の事件をめぐる書評関連のまとめ」を参照)だけではないのは確かだろう。だが、そもそも、一連のやりとりで発言をした人たちは、その中で誰も北原さんのラブピースでの仕事に関してのコメントすらしていない。少なくとも、私はそういう発言を見ていない。さらには、「女たち」、「スタッフをはじめ私たち」とスタッフ等の他の女たちにまで言及されているようだが、北原さんと一緒にラブピースや他の場で仕事をしてきた「女たち」に関する批判も私はみていない。あくまでも一連の批判は、ツイッターを通してみえてくる北原さんの取材者としての仕事や、個人としての発言に対してだったはずだ。

それに加え、今まで北原さんが行ってきた仕事がどのようなものであろうが、その人が「今までどのような仕事をしてきたか」によって、発言への評価を変えるべきだというなら、それこそ権威主義だということになりはしないか。

さらに北原さんは「表層だけをみるな」「本を読んでくれ」という趣旨のことを、何度もツイートで繰り返された。たしかに一連の反応は、北原さんのツイッター上でのつぶやきおよびウェブ上でわかることに関するものだったが、ツイッター上での発言も、そしてウェブ上に掲載される北原さんが出演する集会案内も、北原さんはそれをツイートされたりしていたのであり、そういった発信に関して必ずしも本を読まないと意見を言うべきではないものだとは私は思っていない。そして、実際のところは、『毒婦』を読んで、それへの感想という形で発信されていたMiwananaFFSさんに対して、今回のブログエントリにおいても、もっとも北原さんは強く反応しているようにもみえる。

さらには在日認定問題、そして、『毒婦』をめぐる取材の倫理や取材者と被取材者の権力関係の問題、『毒婦』をめぐる宣伝やイベント等(例えば「ドスコイ佳苗Night」)をめぐる問題すべてを、「良識」や「正しさの主張」という枠に北原さんこそがまとめ、おしこんでしまっているように私には見える。もっといえば、このツイートあたりをみると、韓国のフェミニストを評価しつつ(それはもちろんいいのだが)その人たちとの比較対象として設定されているようである(日本の?*1)「フェミニスト」の主張を「正しさの主張」に限定されたものとして、矮小化しているようにもみえる。北原さんにツイッターで意見をいっていた人たちだって、「迷いながら行動」している人たちかもしれないのに。

そして北原さんは以下のように書く。

大義名分や正義を堂々と振り回す、そんなことを絶対にしないように自省しなくちゃ。怒りを鎮めなくちゃ。そう心から思った。自分に誓った。私は闘っているんじゃない。自由を手放さないために必死なだけ。楽しく仕事をしたいだけ。

「自省しなくちゃ。」それは自分の自由を守り、楽しく仕事をしたいというために?他人についてはどうなのだろう?

例えば、取材の対象者である、被害者男性とされる人に対して、キスを何回、被告としたかという質問をすること。その質問に対して、同行した編集者はやりきれない表情をしていたらしいこと。さらに、その男性について否定的な印象をもったということも北原さんは記してもいる。「性暴力被害者の女性に「キス、何回したの?」とゲスな好奇心で聞いたわけではない」とも北原さんは言う。でも、女から男への質問だったら、それだけで「ゲスな好奇心」にはならない、ということになるのだろうか?そもそも、いったい何のために、同行した編集者さえもがひくような質問をしたのかもよくわからないままでもあるのだが。

さらに北原さんは以下のようにも書く。

驚いたのは、私が被害者男性の元に強引に押しかけ身動きできない状況で彼の意志をまるで無視しマスコミという権力を盾に暴力的に話しを聞いたに違いない、というストーリーが作られ固定していったこと。

だが、上記のTogetterまとめをご覧いただくとわかるように、「強引に押しかけ身動きできない状況で...」などという発言を私はしていないし、ほかにしている人も私は知らない。ここで問われている「権力関係」というのは、北原さんが取材者であり、プロのライターであること。そこにプロの編集者も同行していたこと。人数的にも取材側のほうが多い。そして、取材される側も、取材されることにおそらく慣れていないであろう人であり、さらには犯罪被害者である可能性もある人であること、だ。もちろん、北原さんは女性であり、取材相手は男性だという点で、ジェンダーだけからみれば非対称だ。だがその他の面においては...? 権力関係というのは、ジェンダーも当然絡むが、それだけで規定されているわけではない。さらに、この場合の「キス」に関する質問は、犯罪被害者男性のみならず、その相手として想定されていた木嶋被告にも関係してくることでもある。必ずしも、女→男への質問というだけに限定されない事柄でもあるように思う。

いづれにせよ、北原さんのツイート、そして今回のブログエントリでも一貫している、「良識」や「大義名分や正義を堂々と振り回す」ことへの批判などの流れをみる限り、そうした(日本の?)「フェミニスト」たちがいる、ということに強く反発しているように思える。

ここでの「大義名分」という言葉からは、北原さんへの批判がどこか外からでてきた、宙に浮いたような「言葉」にすぎず、内面からでてきた、心からの思いではないという決めつけをも感じる。一連の在日認定問題や、『毒婦』をめぐる取材、イベント、そしてMiwananaFFSさんの『毒婦』の読解について等の人様々な発言が、すべて「大義名分」として矮小化された状態でしか届かなかったのであれば、それはあまりに残念というより他ない。
そうした中で、「正しさ」にとらわれず、もっと自由な自分、そうした問題に気づいてしまい、「自省」をもできる、余裕ある自分こそ、よりよくわかっているのだ、的な位置付けを感じてしまったりするのは私の考え過ぎだろうか。

さらに、「正義を振り回す」といった言い方で、抗議運動をするフェミニストたちが、批判されてきた歴史を私は思い起こしてしまう。
そもそも、例えば「性差別をなくす」ことがフェミニズムの目的のひとつであるのだとするなら(少なくとも私にとってはそれは大きな目的のひとつだ)、それが「正義」なんだという信念がある程度はあるものではないか。少なくとも私はそう思っている。もちろんそれを考えたり、運動をしたり、さらには日頃生きていく中で葛藤をおぼえたり、揺れ動いたりするのは当然ある。でも、「性差別をなくす」ことも、「民族差別をなくす」ことも、刑事犯罪の被告であっても人権が守られることも、私の中では「正義」だ。もちろん、自分の主張だけが「正義」なのだと思い込むことのリスクは大きいとは私も思うし、それがおかしいことも多々あるだろう。そうした場合は批判されるべきだし、議論も積み重ねられるべきだ。でも、だからといって、「正義」を主張すること自体を問題視する、というスタンスはどうなのか。

たしかに、否定的感情が前面にでた形のツイートで批判されると、こたえる。それはわかる。日頃から、「ネトウヨ」的な、見るに耐えないような批判を大量に受けている北原さんの場合、より大変な思いを日頃からされていることだと思う。それには心から私も憤りを感じる。そうした批判と似たようなものを感じるような、嫌味や否定的感情があまりに前面にでる発言をしてきたと感じられたのなら、私自身も反省し、考え直す点は多々あると思う。

でも、その上で。

北原さんは女である自分が、闘っているんじゃない、「楽しく仕事をしたい」んだという。「楽しく仕事をしたい」という思いは否定しないし、私だってそう思う。だが、それだけでいいんだろうか。その中で、他人の人権を侵害しているかもしれないといわれた場合、どう考えるべきなのか。さらには、闘っている人がいた場合、それを単に「大義名分や正義を振り回す」扱いにしてしまうのはどうなのか。自分が楽しければ、自由ならば、それだけが何よりも重要だというなら、それは私にとってのフェミニズムではない。自らにもある、権力性や差別性を常に振り返る視点を持ち続けること、それが私にとってのフェミニズムの外せない側面だから。そして、「大義名分や正義をふりかざしている」という決めつけ的な批判の物言い自体がもちうる保守性と、そういう批判がフェミニズムについて向けられてきた歴史、そしてそれと闘ってきた女たちの歴史も忘れたくはない。

同じ*2フェミニストだからこそ、という期待の裏返し的な面は私は正直もっていると思う。同時に、だからこそ、議論が時にはひじょうに困難でもあることもわかる。それでも、対話も議論も可能なはずだとも思っている。

*1:ここで「?」をつけているのは、北原さんが誰を具体的に指しているのか不明だからでもある。ちなみに、今回の一連のやりとりを行った人たちには、在日コリアンの人も、そして私も含め、在北米の人もいる。

*2:加筆:この「同じ」という言葉は問題があるのでは、というご指摘ツイッターでいただきました。確かに「同じ」というのは乱暴な表現だったかもしれません。「フェミニスト」と自認するどうしだとしても、それが必ずしも「同じ」であるとは限らず、むしろ差異は多々あるわけで。ご指摘感謝。