「男女共同参画」型、引っ込み思案フェミニズム?

前エントリの議論がネットで続いている。kodakanaさんが議論の流れを紹介してくださっているので、ぜひご参考に。
id:discourさんのところで、なぜ一部男性会員がファイトバックの会や日本女性学会など、一部フェミニズム団体を代表しているかのようにネット上で見える状態になっているのか?という疑問も出た。フェミニズムを代弁するような発言をするひとたちも、自らの権力性にあまりに鈍感なケースが多くどうかと思うが、その人たちに代表させたまま(実態はどうであれ、少なくとも、そのひとたちが代表しているかのようにネット上では見える状態のまま)放っておいている多くのフェミニスト女性たちがいるのも事実。しかも、MLなどの議論には参加しているのに、MLの外に出た、ウェブサイトやブログになるととたんに出てこなくなってしまう状況が、ここしばらく続いているように感じる。

男女共同参画」なんだから、男性がでてきて何が悪い、、ということなのだろうか。別に男性がでてきて悪くはないのだが、今の男性ばかりがでてくる状況は問題だと思う。

初期リブや「行動する女たちの会」関係資料などみていて思うのだが、以前の女性運動でこんなに男性ばかりが前面にでてきて広報状態になっていたことって、あっただろうか。もちろん、これらの団体があった頃にはネットはなかったわけだけれど、、、そして、集会の内容などをみても、例えば私が年表づくりに関わった行動する会の場合、集会で講師役をするひとたちは必ずしも外部から呼ぶわけではなく、会の内部から、様々な違う人たちがでてきて行っていたように思う。会のニュース原稿執筆にしても同じだ。最初はできなくても、何度かやっているうちに、誰もがそういう役ができるようになっていったのが会の強みでもあった、とよく聞いた。「会に育てられた」というひとたちに何人も会った。
だが、会の解散の決めてになったのは、そういった講師役、司会役などをすすんで引きうけるひとたちが減ってしまい「私にはできないから、、」「自信がないから、、」などとひいてしまうということでもあったと言ってたひとたちもいた。(もちろん、それだけが解散の理由ではないが。)「女性がいつもやってきた、補助的役割ばかりを引き受けるとか、役割からひいてしまうとか、そういうことを変革しようというのが会だったはずなのに」という思いもあったと。

しかしながら、今の状況はそれより悪化しているような気もする。昨年のNWECの夏のフォーラムでも、指定管理者制度などの導入の影響もあってか、「人を呼べる講座の企画方法」のようなワークショップが目立った。集会は内容よりも、「人を呼べる」ことが重要視されているのかと感じる面があった。「人を呼ぶ」ためには、都市部から有名人の講師などを呼んでくるのがおそらく手っとり早そうだ。そして、女性運動体内部のひとたちが、集会講師などをつとめる機会がますますなくなっていく。内部の人が勤めるとしても、一部のリーダー格のひとたちに限定されたりとか、、
そして、とくにネットがからむと途端にますます引っ込み思案になり、「私にはできない」と言い出すひとたちが増えている気がするのだ。数年前だったら、パソコンが家にないとか、単にやり方を知らないひとたちもたくさんいた。しかし現在、メールはせっせとしているひとたちはかなりいるのだ。だが、閉じられたMLという空間の外にでて意見を述べることはひじょうに少ない。