梶川ゆきこ広島県議の発言問題その3

当ブログでもすでに2度、梶川ゆきこ広島県議による問題発言をめぐる波紋については扱った。

梶川ゆきこ広島県議のtwitterやブログでの一連の発言に関して
梶川ゆきこ広島県議の一連の発言問題続報

そして、梶川ゆきこ県議はこの後も問題発言を連発、もはやtwitter上でもっとも有名な県議のひとりなのではないかと思われる状態になってしまっている。新年をむかえても、その勢いは衰える徴候もない。いつまで続くかも予測できないので、シリーズ化して今回のエントリのタイトルをとりあえずその3にしてみた。(終わってほしいんだけどねえ。)

twitterとブログと両方で問題発言連発だからよりすごいわけだが、例えばtwitterにおいては、「国立大学卒の若者がサラリーマンをやめ、広島県に戻ってきて就農するのを支援したいと思います。」という、国立大学の若者しか支援しないのかという誤解をいかにも招きそうなツイートを皮切りに、有機農業と地産地消について無知に基づくツイートを連発。(梶川県議は現在農業問題に取り組んでいるようなので、この無知と誤解ぶりはちょっと問題か。)
Togetter 梶川ゆきこ氏(広島県議会議員)の有機農業と地産地消に対する理解について

そして、年明け早々女性のファッションへの感想から派生して、若い女性やセックスワーカーに対する差別や偏見が丸出しのツイートを行った。
claponさんが梶川県議の女性のファッションに関する問題ツイートをまとめてくださったのでご参照を。
Togetter 女性のファッションに関する梶川幸子広島県議会議員のツイート
梶川幸子県議の「売春婦」に関する発言について

一昨日には、読売新聞批判の文脈で、どう考えても無関係な「北朝鮮のような」という文言を使うツイート。また批判を浴びる。(とくに@氏がしっかりと批判を行っておられる。)

このように問題・差別発言連発状態なわけだが、梶川県議に批判的なコメントはスルーされたり、批判的なコメントや、梶川県議の信念に反する内容の情報提供とともに@を飛ばしたかなりの数の人たちは、私のTLをみている限り、どうやらブロックされているようである。(そんな私もだいぶ前に被ブロック状態。)

また、梶川県議はブログにおいても、問題発言を多々行ってきている。
11月16日付エントリ「唯一、絶対的な価値・モノサシはない!」 においては

人権家だと自分では思っている人達がネットの中で、個人を祭り板で集団リンチ(私刑)をする。言っていることとやっていることが、全く違うと思いませんか?(略)見知らぬ人間に敵意を持ち、批判する人は、そういう育ち方をしてきたということです。他人を尊重し、共感することができない人は、周りの人々から認められず、共感してもらえない環境で育ったのではないでしょうか?(途中略)他の人を尊重し、共感する能力のない人々はネットの中だけでなく、実社会でも多くの問題を抱えて暮らしているのではないでしょうか?

ここでの「祭り板」というのは、最近の状況を見る限りTogetterのことではないかと思われる。Twitter上で県議の批判を行ったり、Togetterまとめをつくったり、そこに掲載されている人たちは「集団リンチ」を行った人たちであり、「そういう育ち方」をしてきて」「実社会でも多くの問題」を抱えていると、梶川県議こそがこれらの人たちのことを知りもしないのに想像力たくましく批判をしている。要するに自らの意見に共感できない人たちは、すべて「育ちが悪くて実社会で問題を抱えている人たち」と言っているようだ。このエントリのポイントは「相手のことを知らないのに知っていると思い込んではいけない」ということのようでもあるのに、エントリ内で自己矛盾をきたしている。

11月20日付エントリ「子どもが育つ魔法の言葉」 においては、「インターネットによる嫌がらせが原因で、今、私は難聴気味で耳鼻科に通っています。」と、ご自身の難聴の原因はネットであると発言、ネットというサイバージャングルに住む「野生の動物」とかなんとか、なかなか強烈な表現を使いつつ、

「子どもが育つ魔法の言葉」を曲解した人は「育ちが悪い」とバカにされたとネットでつぶやいています。
曲解しかできない人と関わっても、私自身の身体に悪影響を及ぼすだけなので、ツイッターもブロックしています。

どうやら、私だけではないにしろ、私も梶川県議は自らへの批判を「批判者の育ち」問題にもっていっているという趣旨のツイートをしたので、「曲解しかできない人」として言及されているようである。ブロックもされていることだしね。

12月29日付エントリ、「価値判断基準のない政策でいいのか?」 では、ダム問題に言及しつつ、「このダム問題、地域住民の課題としてではなく、視野を拡げ、時空間を超えて、考えるべきではないかと思います。」と地方議員とは思えない発言。そして大晦日の12月31日付エントリ、「目標の選択が人生!」においては、

20代〜30代で経験を積み、非正規雇用から抜け出す決意をするかどうかは、自分次第。
日本で就職できなかったら、ちょっと、海外で仕事をしてみよう。
視野を広げる経験、きっと活かされます。
特に、内向き志向が強い日本では、経験は強みになります。

「自分次第」「ちょっと、海外で仕事」と、典型的自己責任論者といった議論を展開している。

1月10日付エントリ、「成人式を迎えられる皆さん、おめでとうございます。」では、ツイッターやネットを使う理由について以下のご発言。

私がツイッターで日々、つぶやいているのは、特に若い世代に投票に行ってほしいからです。
インターネットを通して、政治に関心をもっている無党派層、若い世代がこの国の政治を動かしていると実感できる日本にしたいと思います。

ネットを使うこと自体はいいけれど、今の県議使い方だと、正直、政治とか議員というものに対して若者を絶望させる効果を果たしかねず、逆効果のようにも思うのだが。

もはや、ツイッターとブログの相乗効果で、数日に一回は「梶川まつり」が起きているような状況になってしまっている。
私自身もいい加減にしてほしいと思いつつ、一度関わってしまったし、あまりに問題発言連発だし、そして梶川氏が一般人ならいいのだが、公人である議員だし、、ということで、放り出すこともできずそのままツッコミ続けてきている展開。ふう。いつ終わるんだこれ。

延々とツッコミをいれてきてしまったが、最後に2点、私が大きな問題と考える点を指摘しておきたい。

一点目としては、このネット上での意見内容が、おそらく選挙区に住む人たちほとんどが知らないままなのだろうと思われる面だ。普段から、梶川県議がネットで発信している意見と、常日頃から同じような発信しているのならまだ選挙区の人たちも判断のしようがあるだろう。だが、梶川県議の議会質問を見る限りでは、ネット発信内容と議会質問内容にけっこうなズレが見られるのだ。2008年6月広島県議会定例会での梶川議員は、ワーク・ライフ・バランス、パパ・クオータ制度などについて質問している。そして、2009年12月広島県議会本会議では、男女共同参画という言葉が出てこないと県知事批判。ここから見る限り、ご本人的には男女共同参画に積極的に取り組んでおられるつもりなのだろう。そんな中、あのセクハラや、非正規雇用の女性に対する認識は怖いものがある。同じ12月本会議では、県議は「ロストジェネレーション」に関する質問をしており、「二十代から三十代の若者が正規雇用として仕事を得て、安定した生活を送り、結婚して家庭を持つことができる広島県であってほしいと私は思います。」と述べている。だが、上記ブログエントリでは、そのような若者は広島に残らず、海外にでていけという内容になっている。かなりの矛盾ではないか。いったいどちらが県議の本意なのか、議会質問との矛盾についてどう考えるのか、これはぜひお伺いしたいところである。(ということなので、反映はされないだろうが、梶川県議のブログにこのエントリもトラバしてみる。)

2点目。ネットで発言し、それに対して批判がきたら、すべてそれは自分に対するバッシングであり、批判する側の個人的な資質や背景に問題があって自分の意図を曲解しているだけであって、自分は決して悪くないというスタンス。政治家だったら、有権者の誤解を招かないようなコミュニケーションをまず自ら行うべきだろうに。そして、自分に批判的なツイートをする人たちは即ブロックして、意見は聞かなくてよいと考えているらしい現状。多様な意見やニーズをもつ市民の声を拾い上げるべき、公人である議員の態度としてもどうかと思うし、議員がネットを、とくにツイッターのようなインタラクティブなツールを使うに際して、かなり問題があるのではないか。一方的に支援者に対して発信したいだけなら、支持者対象のメルマガでもやっていればいいのだ。

そして、昨日には以下のようなツイートがあった。

もはや、県議への異論をツイッターで表明すると、「実社会でも評価されていない」人とされ、「タンやツバ」扱いとなってしまうようだ。

こんな状況なのだが、県議がご自分の認識では、ネットをうまく利用してると考えているのではないかという節もある。2009年12月の県議会本会議においても、県知事に対し、県知事がツイッターを使っていると言及しつつ、「県民から遠い遠い存在であった知事の生のつぶやきが、県民の関心を県政に呼び起こすのではないかと私は期待しております。」と述べている。議会質問までするということは、相当自分はネットを積極的、効果的に使っているという自負があるのではないかと想像する。誰か、県議にネットの使い方について再考を促せるようなスタッフはいないのか、あるいは、進言しても耳を貸さないような状況なのだろうか。本当にいつまでこの「梶川まつり」は続くのだろう。