メディアにおける性差別運動の衰退

「江原史観」エントリーのコメント欄議論で、フェミニズムにおけるメディア関連運動の衰退、という論点が出てきた。
重要な点だと思うので、別エントリーをたててみようと思う。

id:discourさんのコメントが、問題のありかを端的にまとめている。

# discour この2つのキーワード(「モグラ叩き」、「女性とメディアのいい関係」)を使ってご説明します。これらのフレーズは、運動体の一員だったわたしがしばしば耳にしたことでもあります。メディアの性差別批判の運動は「モグラ叩き」にすぎないからしても効果がない、それより内容分析のような客観的な分析をするのが望ましいことだ。でないと女性とメディアの領域は進展をみない、ということをはしばしば言われていました。論文などでもいつも現状を変えてきたのは研究であって、運動は「もぐら叩き」をする存在でからかいの対象となりかねない困った存在か、研究に遅れてついてきて同じようなことをやっている遅れた存在といった格下扱いをされてきたような気がします。研究>運動などのように、状況を定義する力をもっているのが研究者の方だと言えましょう。
学者さんがそうした話を講座などでされるので、90年頃はとても多かったメディアの性差別批判をする市民グループが今や絶滅状態になっています(実際、ヌエックにいっても、メディアについてのワークは見られなくなっています。かつては大人気だったのに、、)。

もう一つの「女性とメディアのいい関係」というキャッチフレーズですが、これは、行政が発行する市民向けの啓発紙などで学者さんがよく使われるものです。これは市民向けに、メディア企業を敵に回すことをせず、いい関係に保つようにとおっしゃるものです。メディア研究者は、元マスコミ企業にお勤めの方が多いので、メディアを敵に回さず「いい関係」を保つようにされていることもありましょう。

こうした学者さんの影響の元、市民はグループを組んで性差別を批判することがなくなりました。学者さんの誘導が効果をもって「運動が力を失った」という方が正確な状況だと理解しています。

それに続く私のコメントは以下。

1998年の日本女性会議・尼崎のメディア関連のワークショップに、メディア運動体(ジェンダーと表現の会)の一員として出たことがあります。学者がリーダーシップをとって組織した分科会で、いくつかのメディア運動グループの人たちがそれぞれの活動の報告をしていました。折しも「メディアリテラシ−」が流行していた時期でもあり、「メディアについて勉強、分析してリテラシーを高める」とか、「人にメディアリテラシーを教育する」という方向の運動をしていたグループがほとんど。私が驚いたのは、メディア抗議活動をしている/それについて語るグループがなかったことです。「抗議は重要」と思わず発言してしまったのを覚えています。
その後、メディア運動はどんどん勢いを失っていき、最近のヌエックではほとんど見えなくなってしまいました。同時に行政主導の「ジェンダーチェック」流行期になっていったように思います。(斉藤さんのブログも参照)そして今年のヌエックの方向転換もあって、メディア運動は募集ワークショップの枠に当てはまらなくなっています。


メディア関係の運動の衰退は、90年代半ば頃からとくに顕著になったと思う。
行動する会などの「抗議」主体の運動が、スタイルとして飽きられたこともあっただろうし、メディア側が対応に慣れて来たこともあるだろう。
それに加えて、(マスコミ業界出身であることも多い)学者による「もぐら叩き」評価、そして「女性とメディアのいい関係」なるコンセプトを広め、問題は市民のメディアリテラシーにあるのだとしたことも問題だったと私は考えている。女性/男女共同参画センターなどでの啓蒙講座や、市民団体の助成事業などにおいて、90年代後半の一時期「メディアリテラシー」ワークショップはだいぶ流行した。


私自身も、そういった「メディアリテラシー」系の連続講座に出たことがある。96年、東京女性財団が主催した、エンパワーメントのための情報なんとか、とかいうタイトルの講座だった。金曜の夜の、有料の講座だった。金曜の夜に有料講座に出てくる女性たちというのは、青山近辺で働いている独身女性が大部分だったと思われる。しかし、「女性は情報の探し方が下手なので、重要性について啓蒙し、方法を教えてあげなければならない」と考えていた(と思われる)行政や講師側と、日頃職場において、ITを使ったり、情報を得たり、整理したりする仕事をしている女性たちのニーズは著しくずれていた。講座の質問コーナーになると、講師への反対意見や批判で盛り上がっていたのがひどく印象に残っている(私もその一人ではあったが・・)あまりにズレた講座のあり方に、講座修了後に参加者たちの意見をまとめた抗議文を提出したのだが、「担当者が財団をやめてしまった」ために、その手紙への対応はされず、うやむやのうちに終わってしまったのだった。ある意味、典型的な行政対応だった。


話が少々ずれたが、こういった啓蒙主義的「メディアリテラシー」講座は一時期はやって、その方法を踏襲した運動体によるワークショップなどもよく見られたが、90年代の終わり頃にもなると勢いを失い、夏のヌエックワークショップでもほぼ姿を消してしまったように思う。「エンパワーメント」というカタカナ言葉が、個人レベルでの能力の向上を指すかのような意味合いで使われたといえるだろうか。また、「メディアリテラシー」はメディアをクリティカルに分析すること、と言われたが、「クリティカル」の意味が議論されることも少なかったように思う。


メディアリテラシー」関係が勢いを失ったのみならず、より深刻な問題は、今現在、メディアの性差別に対して抗議する運動は非常に目立たないものになり、絶滅状態ともいえる現状だと思う(例外にメキキネットなどはあるが)。「もぐら叩き」と批判する学者の声があるが、日々刻々と変化するメディア環境に対して抗議するには、迅速な行動は不可欠である。それを「もぐら叩き」というのは、私はひじょうに理不尽な批判だと思っている。そしてその批判により、具体的なメディアの性差別に抗議してきた運動の重要性が軽視されるような風潮をも生んだのではないか。


私が一時期はいっていた「ジェンダーと表現の会」は、メディア制作者たちに声を伝えるのを目的に、マスコミの本社などの前でビラを配ってみたりしたが、運動の頭打ち感は確かにあった。差別的な広告について抗議にいったこともあったが、あまりにマスコミ関係者の対応が慣れてしまっていて、ショックバリューもなくなってしまっていた。メディアに関連して、今、どういう運動の方向性が考えられるのか。議論していきたい問題である。