「ようやく名指し批判が!」と思ったらぬか喜び

以前より何度か、伊田広行さんの「ジェンダーフリーを批判するフェミニスト」批判がいったい誰を批判しているのか、引用もなく具体性に欠けるという指摘をしてきた。
http://diary.jp.aol.com/mywny3frv/254.html
http://d.hatena.ne.jp/yamtom/20061016

数ヶ月前(だったかな)、イダさんのHPに掲載された、「ジェンダー概念の進展と課題」という論文大阪経済大学『人間科学研究』第一号掲載)にて、ついに私が名指しで批判されていることを発見!「山口智美さんなどはフェミニズムを誤解」と理由もわからず言われて以来、初めて理由らしきものがついて名指しで批判されているらしいという画期的な展開に、何か反応すべきかと思いつつ、かなりの長文でぱっとみてもなんだかすんなりはいってくるようには見えない文章だったので、個人的に忙しかったこともあり、今まで手をつけていなかった。

今回、その文章をようやく読んでみた。
私の名前が小見出しにまでなっているし、文章がたくさん引用されている。

山口智美氏の主張
 山口智美氏は、宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』やHP(2004年12月16日、東京大学ジェンダー・コロキアム「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」の記録等)などでジェンダーフリー概念を批判しているフェミニストである。フェミニストとして積極的な主張をされているが、ジェンダーフリー概念については、私と大きく立場が異なる。ジェンダーフリーをめぐって、ある意味、典型的な主張をされているので、彼女の主張を元に、私の立場を説明していきたい(以下の引用は上記HPから:下線は筆者)。


なんと私の主張を元に、伊田さんがお立場を説明してくださるという。おお、これは楽しみだ。
そして、その後には私が書いた文章の引用が続く。(上記HPというからには、URLくらい紹介してくれてもいい気がするが、、まあ細かいことは置いておこう。)

「レースフリー」などという概念は考えられない。=差別を見えなくするから。「ジェンダーフリー」も同様に、おかしな概念。」「ジェンダー・フリー」にこだわる必要性はあるのか? 説明しやすいはずの、男女平等や、性別役割分業/分担ではなぜいけなかったのか?」「ジェンダーフリーを使わない=バックラッシュに「屈する」ということなのか?実は学者のメンツがかかっているから、行政と学者の密着関係を問い直すことにつながるから、やめられないのではないか?」「日本女性学会Q&Aなどでは、「女らしく、男らしく」から「自分らしく」へ、などと言われる:『ジェンダーフリー』な個人像を想定?「自分らしく」とはいったい何?ジェンダーがない人間など可能なのか?
(元の伊田氏の文で下線がついている部分は、ボールドで表記。)


(引用が長いので中略)


「・・・「中間層」が、もし私の親類縁者やら、昔なじみの友人やらをさすのだとしたら、その人たちに「ジェンダーフリー」という言葉は、どう考えても届いていないのではないかと私は思う。?むしろ、「ジェンダーフリー」という言葉の迷走ぶりは、そういう人たちに届かせないために、理解して社会変革なんかに動かないでほしいがために、行政主導で考え出した「わけわからない」言葉なのではないか、というようにすら考えたくなるくらいだ。」

たくさん引用して、文章中に下線が何かいろいろ引かれているようだ。さて、次に、この長い引用をもとにイダさんの立場を説明してくれるのか、、?と思いきや、、、、この次には「斉藤正美氏の主張」という小見出しが続き、斉藤さんが書かれた文章の引用が続く。そして引用後は、また「上野千鶴子氏のスタンス」という小見出しがあり、上野氏の引用である。私の立場をもとに、イダさんのお立場を説明してくれるってのは、いったいどこに書いてあるんだろう?
いや、もしかしたらこの次にまとめて、山口−斉藤ー上野の順番で立場が説明されているのかもしれないと思ってみたのだが、この次には

「第3の道」という『バックラッシュ!』のスタンスでいいのか 
宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』は、バックラッシュでもジェンダーフリーでもない、第3の道を主張するというスタンスが取られている。それは、「まえがき」に明示されており、同書所収の山口智美論文、上野千鶴子論文でもそうしたスタンスが示されている。同書の中の各論文には、必ずしもそうした「第3の道」の立場でないものも含まれており、斉藤環論文など有意義なものも多いが、同書全体のスタンスは、そうなっている。

例えば、「まえがき」には「ジェンダーフリー自体には距離をとり、時には批判をしてきた論者」、「ジェンダーフリーに対して批判的かつ傍観してきた論者にお集まりいただいた」、「ジェンダーフリーは推進しない」と明示されている。

上野論文では以下のような記述が見られる。

そして、上野論文の引用が続いているのだ。

上野論文の長い引用の後、つ、ついに次なんだろうか!?この次のセクションはこう続く。

ジェンダーフリー概念に消極的・批判的なフェミニスト/専門家がいるのはどうしてか?

上記のジェンダーフリー批判の諸主張について、以下、私の見解を述べていく。

まず、ジェンダーフリー概念を好ましく思わない人は、「ジェンダーフリーは、ジェンダー(という重要な視点)をなくすこと」ととらえていることが多いようである。上記山口氏もそのように主張されている。シュガーフリーという言葉が「砂糖なし」を示すように、ジェンダーフリーが「ジェンダーの視点」自体をなくすこととか、性アイデンティティ自体の否定/無視のように感じるということだ。これはジェンダーを「伊田」のみに理解しているということと対応している。
(この「伊田」の後は、なんか機種依存文字がはいってるようだが、私はMacユーザーなので読めない状態。)


実は、私の名前が直接言及されて内容が批判されているというのは、この長大な論文全体の中で、「上記山口氏」というこの部分だけだったのだ。あんなに私の文章を長大に引用して、下線までひいてくれていたのだが、あの下線は何だったのか、その意味すらも不明なままである。「彼女(山口)の主張を元に、私の立場を説明していきたい」と書かれてはいるのだが、どうもその後、忘れられてしまったようである。(全然文章の論理が通ってないのだが、編集段階で誰も気づかなかったんだろうかな。。)

この後、「斉藤氏たち」という表現が一カ所あるが、これは私がはいっているのかもしれないが、直接名前をだして言及されているのは斉藤氏のほか、上野千鶴子氏となっている。

その後、「まとめ」として、「ジェンダーフリー概念への賛否の距離」という表のようなものが出てくる。

ジェンダーフリー概念に批判的
上野千鶴子
山口知美 斉藤正美


ああ、漢字まで間違えられてしまって、、。

よくよく見てみれば、この文章も相変わらずのイダ節満載だったのだ。「フェミニストの一部には、やはり男女二分法の上での女性本質主義的な立場が、一定程度あると思う。」とか、「もしジェンダーフリー批判派の中に、この男女2分法肯定の立場からフェミニズムをとらえて、ジェンダーフリーフェミニズムの伝統(女性の立場、女性の団結、女性差別批判)を壊す匂いを感じて反対する人がいるとしたら」と、誰がいっているのか具体性が欠落していたり、「「男女共同参画センター」ではなくて「女性センター」であるべきだなどと、いたずらに不要な対立を煽る必要もない。」のように、主語が欠落していたり。

そんなこんなで、「ついに私への名指し批判が!」と思ったけれど、どうやらそれはぬか喜びだったようだ。

この文章は、以下のような文で終わる。

しかし、だからこそ、私はフェミニズムを平易な言葉でバランスよく説明するという作業を行っており、それを踏まえれば、伏見[2006]のフェミニズムへの疑問や批判の多くは解決する。その意味でも、ジェンダーについて、本稿のような議論の水準がはやく全体化されることが望まれる。

最後に唐突に伏見氏がでてくるのもよくわからないのだが(結論部分で唐突に新しいことを言い出さない、というのは、論文書くときのルールのようなものだと思っていたが、、)、それは置いておいても、「この論文こそが高水準なんだぞ、フェミニズムは自分の論文の水準に追いつかねばならないのだ」といっているみたいで、ものすごい自信だ。この自信はいったいどこからくるんだろうか。

ついでに、この文章の最後にでてくる、「資料」ってのがまたすごい。
例えばこれ。

「身体の性」(生物学的、身体的区分) (セックス側面)
多数派:明確な男女どちらかの身体的特徴
中間派:一応女性/男性だが、身体の様子が典型的な女性/男性を基準とすると、少し外れている人
少数派:インターセックス(IS:半陰陽)   


すごく初耳な区分なんですけど。。。「明確な男女どちらかの身体的特徴」とか、「一応女性/男性だが」とかってなんなんだろう。多数派とか中間派とかなんとかの区分も謎。