岩波『新編 日本のフェミニズム』アンソロジーの自画自賛っぷりのすごさ

女性史・ジェンダー史 (新編 日本のフェミニズム 10)
岩波書店の『日本のフェミニズム』シリーズが増補新版として出版された。編集委員の数がそれまでの4人(井上輝子、上野千鶴子江原由美子、天野正子)から、8人(天野正子、伊藤公雄、伊藤るり、井上輝子、上野千鶴子江原由美子大沢真理、加納実紀代)に倍増し、編集協力として斎藤美奈子も加わっている。すでに発行されている、8巻と10巻を早速取り寄せてみた。

まだ本は全部読んでいないのだが、このシリーズのすべての巻の巻頭に収録されていると思われる、「増補新版の編集にあたって」という2ページの文章を読んだ。そしてこの内容があまりにすごいので、この2ページだけに基づいてエントリを思わずたたてしまった。

突っ込みどころはいろいろあるのだが、まず最初のページのこの文。

刊行以後、90年代からの15年間は、日本においてジェンダー政策が主流化し、女性学が制度的な知の再生産のもとで若手の研究者を次々に送り出すなど、多様で多産な時期でした。その成果に脅威を感じるかのように、フェミニズムに対するバックラッシュすら登場しました。

90年代からの15年がフェミニズムにとって「多様で多産」だという見方もどうかと思う。私のバックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?掲載の、「『ジェンダーフリー論争』とフェミニズムの失われた10年」の歴史観と正反対の史観といえるだろう。そして、「多様で多産」だという理由として挙げられているのが、「ジェンダー政策の主流化」と「制度的な知の再生産」とは。あまりに行政とアカデミア中心の見方である。制度化をも手放しに礼賛しているように聞こえる。
そして、過去15年にもわたって「若手の研究者を次々に世に送り出」してきたらしいのだが、そのわりには、このアンソロジーの編者の中に、その15年の間に送り出されたと思われる「若手の研究者」は誰もいないというのがまたすごい。15年もの間に次々に送り出したというのなら、相当数がいることだろうに。書かれている主張と、本の実態との間にかなりの矛盾が見られる。

「その成果に脅威を感じるかのように、フェミニズムに対するバックラッシュすら登場しました」という箇所もすごい。「バックラッシュすら」かよ。「成果がすごかったからバックラッシュがおきた」というのは、あまりにナイーブな自画自賛モードとしか言いようがなく、こんなことを言っているようでは、バックラッシュはどうして起き、起きるだけならまあわかるが、それがどうしてこれだけある程度の支持をうけてしまったのか、ということはまるでわからないままだろう。そして、有効な対策もうてないままになるのではないか。
そもそも、バッシングされるものは「脅威だから」というのは必ずしもそうではないのであって、「脅威」ではないものだってバッシングされることはよくあるわけだ。「脅威だからバッシングされた」と思い込むのは楽だろうが、それでは何事も解決しないし、すすまないだろうと思う。

そしてその次のページには、以下のような文もでてくる。

もちろんこのアンソロジーが日本のフェミニズムの成果を網羅したものであると主張するつもりはありません。が、旧版の編集意図にもあるように、日本のフェミニズムが世界史的な同時性のもとに、誰の借り物でもない独自の展開を遂げてきたこと、その蓄積は世界に向けて誇れるものであることを、読者は理解されることでしょう。

そこまで「世界に向けて誇」りたいのだろうか。それはなんでなんだろうか。なんかすごいんだぞ、誇れるんだぞとこれだけ繰り返されることで、まったく現状への危機感が感じられないというか、、そして、「世界史的な同時性のもとに」とは書いてはあるけれど、「誰の借り物でもない独自の展開」というのは、ちょっとこれも単純すぎはしないか。似たような発展をとげた部分も、「日本のフェミニズム」とよばれるものの要素の中には、海外からはいってきたり、海外へでていった部分もあるだろう。「日本のフェミニズム」は孤立していたわけではないのだから。「日本ユニーク」「日本すごいんだぞ」説をこれだけ言われると、まるで日本人論のようだ。で、「ユニークですごい日本のフェミニズム」をつくってきたのは自分たちだ、という自負がある方々がこの文章を書いたのだろうな、とも思えてしまうのだった。

フェミニズムをポジティブにうちだしたい」という意図はわからないでもないが、あまりに現実離れして、批判的視点が欠けた巻頭言に、かなりの違和感をおぼえたのだった。