相変わらずの伊田広行氏の曖昧すぎる「ジェンダーフリー」関連の批判

久しぶりに伊田広行氏のブログを読ませていただいたら、「チェルノブイリハート」など原発映画関連の議論なのに、なぜか「ジェンダーフリー」への言及がある最近のエントリを発見。で、読んでみたら、どうみても私のことを言及していると考えられるが、相変わらず名指しでの言及でも、具体的な批判でもないというものだった。2009年女性学会のワークショップで、学者なのだし批判や反論するなら、あくまでも具体的に誰の論考のどの部分を指しているのか、明白にしてすべきという主張を私はしたつもりだったのだが... 相変わらず曖昧すぎる批判である。

例えば以下の部分。

ジェンダーフリーを批判した人と同じだなと思う。ジェンダーフリーは、草の根でひろがった概念だ。でもバックラッシュに攻撃されると、学者の一部や行政の多くは、その使用をいち早く辞め、中には「私はジェンダーフリーは一度も使っていない、賛成しない、科学的でない」というような人が現れた。
日本の現状も知らずにさかしらに、「ジェンダーフリーを言うのは、日本のフェミニズムのだめさだ、行政お抱えの運動に過ぎない」、というような人まで現れた。
暇な人はネットなどでもそうしたことをいって、まるで自分が従来の日本のフェミ運動のだめさを超えた偉い人であるかのように言う人がいた。

バカなインテリの典型だった。
存在に意義がなく、ただ自分が正しいと言いたいだけの「子ども」だった。
日本のバックラッシュ状況の中で、自分の言動が誰を利してだれの足を引っ張り、実際に日本社会の性差別状況やフェミ運動にどういう影響を与えるのかが分からない困ったチャンであった。

ジェンダーフリーを使うことが「科学的でない」という批判をしたフェミニストを私は知らない。誰の事だかすらもわからないが、「ジェンダーフリーを使っていない」といった人なら、過去において上野千鶴子さん、id:discour 斉藤正美さん、(『バックラッシュ!』に寄稿している)長谷川美子さん、そして私、と数人は少なくともいる。でもその人たちは私も含め、ジェンダーフリーが「科学的でない」などとは言っていないはずだ。それとも誰か別にそういう人がいたのだろうか。

だが、「行政お抱えの運動」といった批判、あるいは「日本の現状も知らずに」という箇所は、米国在住で、「ジェンダーフリー」概念の行政主導の歴史、という側面を批判した私のことを指している可能性がひじょうに高いように思える。(斉藤正美さんもありうるが。)「日本の現状も知らずに」扱いを、上野さんや(まあ上野さんの理解される「現状」も限定されているだろうとは思うが)、富山で地元の運動にずっと関わってきた斉藤さんに対して伊田さんが言えるとしたら、それはそれですごいと思うが。あるいは、ネット上で伊田さんの批判エントリをいくつか書いている、米国在住のid:macksaさんのことも指しているのだろうか。そのあたりはわからないが、まあ普通に考えて、一番可能性が高いのは私なんじゃないかと思う。

で、私のことを指しているとすれば、「バカなインテリの典型だった。存在に意義がなく、ただ自分が正しいと言いたいだけの「子ども」だった。日本のバックラッシュ状況の中で、自分の言動が誰を利してだれの足を引っ張り、実際に日本社会の性差別状況やフェミ運動にどういう影響を与えるのかが分からない困ったチャンであった。」というのはかなりすごい言われようである。ここまで言うのであれば、もっと具体的に批判してくれないことには、単なる私の人格批判になってしまっていると思うのだが。私の存在に意義がなくて、「子ども」で、「困ったチャン」って言われているようだからだ。伊田さんだって研究者だし、さらには研究者に限らず、運動家でも、一般市民でも、こうした具体性を書いた人格批判みたいなことをするのはどうなのか、今後の議論として発展する要素はないのではないかと正直いえば思う。

とはいえ、2009年の女性学会ワークショップでの議論も実りのある方向にすすんだとは言えなかったと思うし、伊田さんが私に対してお怒りであるとか、批判をとてもしたいとかだったとしても、それはわかる面もあるし、それはぜひご表明していただければと思う。でも批判するなら、ぜひ具体的に、名前を出して、しかも私の主張のどの部分にどのようにご批判をされたいのか、明記していただけるようにお願いしたい。でないと、本当にフェミニズムにおける議論がまったくすすまないことになってしまうように思うからだ。

伊田さんはさらに以下のように続ける。

だが、さかしらなのは嫌いだ。インテリ的な学問の権威に依るのは嫌いだ。偉そうなのは嫌いだ。主流秩序に加担するのは嫌いだ。
ジェンダーフリーでは、そこの感覚が問われた。
ぼくはある程度、意見の異なるものでも、その意図が善意で、まあまあ人権擁護の方向のものなら、主流秩序を揺るがすものなら、批判するより黙っておきたいと思う。仲間の不十分性は補うことがあっても自分だけ正しいとして安全地帯に逃げない。
そしてすばらしい作品には賛辞を送りたいと思う。
ある作品をほめると、『こんな作品をほめるのか』といわれる可能性はいつでもある。それを恐れて、なんでも批判する人に、私はならないようにしたいと思う。
ダメなインテリは、難しい本や映画や音楽をほめ、流行歌や分かりやすい本、俗なものなどをばかにする。
ジェンダーフリーというのは、学問の概念ではないなどという言い方をしない人になりたいと思う。
ええかっこして、小難しいものを小難しく論じる理屈屋にならないでおこうと思う。
美術館で、美術作品を、言葉で解説して見方を誘導するような、つまらない解説や評論をしないようになりたいと思う。
宗教を学問のようにしている人になりたくないと思う。
現場から、自分から、底辺から、僕は考えるようにしたい。
実践に役立つことを基準に判断したいと思う。

私がいつ「インテリの学問の権威」に頼ったのかもよくわからないが(私のことを指しているのかすらわからないけれども)、「ある程度、意見の異なるものでも、その意図が善意で、まあまあ人権擁護のものなら、主流秩序を揺るがすものなら、批判するより黙っておきたい」というご意見には賛成できない。善意だったら批判しないで黙っているということでは、学問も、さらにはフェミニズム運動も発展しないのではないか。逆に善意だろうが意見が異なるのであれば、異論を述べるなり批判するなりして、議論を重ねることで、いろいろなものが見えてくるのではないか。例えば今の私がいる、圧倒的に白人中心のコミュニティという環境で「白人へテロフェミニスト」たちの言うことはおそらくほとんど善意だろうとは思う。しかしながら、マイノリティのフェミニストとしての観点から、異論を述べたり批判せねばならないことなどいくらでもある。「善意」だったら批判しないで黙っているというのは、結局、マイノリティの意見を黙らせることにもつながるのではないか。さらには「主流秩序」に関して、いったい誰がどういう立場にたって、それが「主流」だと決めるのかどうか。何が「揺るがす」ものであると誰が決めるのか。

さらには、「日本の現状も知らずに」という批判。日本の女性学界隈から私に対してぶつけられるよくある批判でもあると思うのだが、「日本の現状」とは、いったい何を指すのだろう。私は最近は1年に2度のペースで日本にいっているが、もちろん大部分はアメリカに住んでいる。しかしながら、「日本の現状」というのも多様であり、いろいろな人たちにとっての様々な現状があるはずだ。住んでいるだけで「日本の現状」がわかっているといえるのか。住んでいないと、それが自動的にわからないことになるのだろうか。もちろん、住んでいないことでわからない面が多々あることは認めるが、例えば私が日本にいく1ヶ月とか2ヶ月の間、あちらこちらに調査に走り回って、さまざまな人たちにとっての「現状」について見聞きしようとしていることは、何ら意味をもたないことなんだろうか。私は日本に普段住んでいないだけで、日本を対象に調査研究していても、どれだけフィールド調査に走り回っても、いつまでたっても「日本の現状」をわかっていない扱いをされ続けるのだろうか。
私はアメリカに住んで長いが、「アメリカ」という国に私が住んでいることで知っている「アメリカの現状」は、アメリカのほんの一部のとても限定されたものでしかないと思っている。「日本の現状」にしても同じことだと思う。そして、例えば伊田さんは、ご自身が住まわれている環境の外で起きている「日本の現状」について、どこまでご理解されているということになるのだろうか。「日本に住んでいる」から、あるいは日本で何らかのご活動をされているから、ご理解されているということにつながるというのだろうか。そのあたりも、具体的に書いてくださらないと、わからないままだ。

勢いでエントリ書いてしまった気がしないでもない。こういう曖昧な批判に反応すること自体がどうかとは思いつつ、でもちょっとこれはとりあえず、あまりにあまりだと思えたので、記録の意味も兼ねて、エントリとしておく。

団体アカウントでの匿名発信とその責任のありか

「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイトで、私の担当箇所では、匿名発信の問題を扱った。この場合の「匿名発信」とは、実名を使わない発信という意味ではなく、個人としてのハンドルネームを使わずに、団体アカウントを使い、更新者が誰か(ハンドルネームでも)明らかにならない状態でネット発信をすることを指している。

「ネット・メディア利用全体として」においては、以下のように書いた。

インターネットでの発信が普及するにつれ、運動体が団体のアカウントを使い発信するケースも増えた。それに伴い、団体名やアカウントを使い、団体に属する個人がその更新を担いつつ、個人的な意見を表明したりするケースも見られるようになった。団体としての発信なのか、個人的な意見なのか区別がつけづらい場合が多いし、発信者が個人としての名前やハンドルネームを使わず、団体名だけで発信する場合、発信者が誰かが明らかではなく、その発言の責任の所在がどこなのか不明になりがちである。

このように団体アカウントの中に隠れて、匿名のまま個人的スタンスが打ち出された発言をするということは、記述内容の責任を誰がとるのかが不明であることもあいまって、無責任発言、誹謗中傷が起き易い土壌をつくりだしがちだ。印刷媒体なら出す際に編集、校正をしっかりするなどして、団体としての発信であり、編集責任があることが自覚されることが多いが、ネット発信、しかもパーソナルな声や即興の発信がしやすい、ブログ、SNS(twitter, mixi, facebookなど)においては、団体や世話人レベルでの文面などの検討プロセスを経ずに発信される。そういった発信や記述内容の責任は誰がとるのかは不明なままのケースも多い。団体の代表なのか、それとも発信者なのか、団体の中でも曖昧にすまされていたりする。また、ネット媒体においてどのような発信をするべきなのかも、発信者個人におんぶにだっこになり、団体として考えていないことも多いし、団体のメンバーが知らないままである場合もある。

この問題提起は、「団体で意見が一致しなければいけない」とか「団体、フェミニズム全体の印象を悪くするのをやめろ」という主張ではなく、発言の責任のありかを団体でしっかり議論し、誹謗中傷や人権侵害を起こさないシステムをつくること、また万が一、自団体の発信が人権侵害などの問題を引き起した場合、どのように対応し、必要なときには謝罪をするのかも、しっかり議論することが必要だという主張である。


また、ブログに関しても、団体名を使っての匿名発信の問題を扱った。(ブログ設置の目的・経緯と匿名発信の問題

ホームページに比べ、ブログは更新ハードルが低く、パーソナルな発信をしやすいメディアだった。最近、より更新ハードルが低い、twitterfacebookなどのSNS媒体が増えている。また、SNSはブログよりもよりパーソナルな要素を打ち出している面があり(例えばtwitterの「つぶやき」など)、文章確認などのプロセスをせず瞬時に発信することができるメディアでもある。こういったSNSアカウントにも、市民団体のアカウントがあり、その中で個人が発信をしているが、その個人が誰かは明らかではなく、団体のアカウントにおいてきわめて個人的な発信をしているケースも見受けられる。だが、ファイトバックの会のブログのケースでわかるように、団体アカウントを匿名個人が利用して発信するということは、もっとも発信者の責任が問われづらく、誹謗中傷も起き易い土壌をつくるのではないか。

ファイトバックの会のブログやホームページでは、更新者が誰かを団体内でさえもはっきり明示していなかったし、とくに原告が実質上の更新者だったブログにおいては、「Webチーム」として集団更新かのように見せてしまってもいたため、ますます責任のありかが不明になりがちだったと思う。私がファイトバックの件から得た教訓は、ハンドルネームでもいいから、いったい誰が、何人の人が更新作業に関わっているのかなど、更新の状況について団体内はもちろんのこと、外部にむけても明らかにすべきだったということだ。もちろん常にこの方法がよいかどうかはわからないが、最低限、団体名を使ってのネット発信の場合、個人発信ではなく、団体のスタンスであると捉えられること、そしてそこでの更新者、発信者情報が不明のままだと、誹謗中傷につながりやすいことを意識して発信を行うこと、そして何らかの問題がおきた場合の対処の方法や責任のありかについて、団体内でしっかり話し合うことは重要だと思う。

「支援運動」のジレンマとフェミニズム

先日公開した「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイト内容に関して、いろいろ考えていることの続き。

サイト制作に参加した人たちによる「個人的反省点」で浮かび上がったテーマの一つは、支援運動とは何か、どう「支援」すべきなのか、という点だったと思う。ファイトバックの会は、裁判支援団体であり、原告の闘いを支援する、というのが大きな運動の目的だった。だが、その場合の「支援」とは何を意味するのか。フェミニズム運動においては、ファイトバックの会のような労働裁判のみならず、性暴力やセクハラ裁判の原告支援運動もあるし、またDVや性暴力、セクハラなどの被害にあった人たちの支援をするという運動もある。そこでは、「原告や被害者の立場にたちきること」「原告の意思を尊重すること」が重要であるという価値観がある。確かにそれはひじょうに重要だ。フェミニズム運動の根幹をなす価値観の一つであるともいえるのかと思う。

だが、「100%」、いかなる場合にでも立ちきるべきなのかどうか。これを問われたのがファイトバックの会のケースだったように思う。謝罪をすすめようと動いた、今回当サイトを共同でつくった人たちの場合、フェミニズムにおけるさまざまな「支援」の運動ー例えば裁判支援や、性暴力被害者を支援する運動、女性候補の立候補や選挙を支援する運動などーに関わってきた人たちでもあり、「支援というものはどうあるべきか」についてつきつけられたのだと思う。これは、「原告の意思と支援者の信念がズレた場合どうすべきなのか、という問題でもある。しかも、ファイトバックの会の事例の場合、このズレは瑣末な問題ではなく、第三者の人権を侵害してしまったという、ひじょうに重要な問題に関係した。

きろろさんは以下のように述べる。

Bさんの誹謗中傷投稿について見逃してしまったのはこういった背景と、世話人会、ML、交流会を通じて形成されていたこの裁判は原告を支援する裁判で、原告の立場に100パーセント立ちきること=被告の誹謗中傷はしてもよい=被害者支援というものであるという考えが私にもあったため、誹謗中傷投稿がなされても流している状態であった。

また、宮下奈津子さんも以下のように言う。

・被告側の書面に私が触れたのは、第1審の最終準備書面だった。ワード化する作業のために初めて見たのだが、これをもっと早い段階から見ていれば、もう少し違うことができたかもしれないと思う。原告が世話人にもこれを公開しないことの意図はわかっていたので、無理に公開は求めなかったが、やはり支援運動には必要なことだったと思う。原告の意思は尊重しなければという思いこみが私にも強くあり、それが運動を広げることを妨げていたと思う。

きろろさんも宮下さんも、「原告の立場にたちきる」「原告の意思を尊重」という価値観と、会が起こした誹謗中傷にどう対処するかとの間で葛藤があったということだと思う。私自身も、原告がブログを更新していたという事実を、これを表に出さなくては本当にどうしようもないと思う段階まで出さなかったことには、こういった価値観が影響していたのだと思う。裁判支援の運動をしているのだから、とにかく「原告の意思を尊重」「原告を守る」ことを優先せねば、という思いがあった。

また、遠山日出也さんも、原告への敬意や気づかいが重要であることは述べつつ、行き過ぎると逆効果になりうると主張している。

12.私のMLでの言葉づかいを振り返ってみると、原告に対して気の使いすぎ、敬語の使いすぎ、へりくだりすぎている部分が若干あることに気が付いた。今読むと、原告を批判しにくい雰囲気を少し作っている感じがある。困難が多い裁判を進めておられる原告への敬意や気遣いは重要だが、それが行き過ぎると逆効果になることもあるというのが今回の教訓である。

会の中で謝罪問題でもめて、まだ謝罪反対派の人たちとメール議論や交換ができていた頃(その後、それすらできない状況になってしまったが)、ある世話人の方から「私は原告の意思は何でも尊重し、言うこと、やりたいことは何でも支持する決意」といった趣旨のことを言われたことがある。私はこれは違うと思った。原告に対して、何か疑問があったり、間違っていると思ったら、それを言っていくのが運動でもあり、原告が言うことを何でも尊重し、何でもそれに従うというのは、(少なくとも私が思う)フェミニズム運動のあり方とは違うのではないかと。

遠山さんは以下のように述べる。

また、私は、誹謗中傷に対して疑問は感じても、「原告だから(or地元の方々だから)、私などより、いろいろよく知っているのだろう」とか、「70年代からリブ運動をして来られた鍛えられた方だから、そういう見方が正しいのかな?」と思って、十分主体的な判断ができなかったこともあった。謙虚さは必要だが、少なくともわからない点はきちんと質問するべきだった。もし、質問していて、それに対するきちんとした返答がなければ、自分も、他の会員も、疑問を強めることができていただろう。

前日のエントリにも共通するが、「「原告だから(or地元の方々だから)、私などより、いろいろよく知っているのだろう」とか、「70年代からリブ運動をして来られた鍛えられた方だから、そういう見方が正しいのかな?」と思ってしまい、質問すらしづらくなってしまう雰囲気というのは、どうにもまずい。私自身も遠山さん同様、遠方在住だし、大阪のことはよくわかってないし、弁護団会議にも世話人会にも出ていないし、、などと理由をつけて、疑問があっても提示しなかった場合もたくさんあった。それでもやはり、きちんと質問すべきだったし、おかしいと思えば疑問も提示し続けるべきだった。少なくともML上は世話人会の一員だった、MLの管理もしていた私がそういったことを積極的にやっていたら、他の会員ももっと疑問を提示しやすい雰囲気につながったかもしれない。

フェミニズム運動のあり方、とくに「支援運動」というもののあり方について考え直させられた機会でもあったのだと、今、(まだ工事中箇所は残っているが)ほぼ完成したサイトを読み直して思う。

フェミニズム運動における世代間の権力関係と相互批判の重要性

昨日公開したばかりの「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイトでは、サイトづくりに関わった各自が「運動をふりかえっての個人的な反省点」として書いている。その中の斉藤正美さん(id:discour)が、フェミニストとしての自分自身の問題として、ファイトバックの会の運動について振り返っている。

その中でも以下の部分が私にも考えさせられるものだった。

  • 80年代以降の女性学、特に江原由美子氏のウーマンリブ史観により、リブ運動を最高の運動と見なすイデオロギーが浸透すると同時に、後続の運動がないことにされてきた。
  • 原告をはじめとするリブ世代や団塊の世代フェミニストも、後から来た人にとっては、「歴史的な存在」である。リブ世代や団塊の世代フェミニストは、もっと自らを批判的に見たり、批判を受けるような仕掛けが必要だと思った。そうしないと、いつまでも、リブ世代があがめられ、批判されないまま運動に君臨するという状態が続いていくように思う。

(中略)

  • グループ内での行動のあり方については、グループ内の結束が強ければ強いほど相互批判は必要であると思った。とりわけ、グループの代表やより権力をもった人に対し、自由に物が言える状況をつくることをやってこないといけなかったのだと思った。どの業界であれ、「天皇」や「女王様」というような批判がしづらい存在をつくってはいけないと思った。

江原氏のウーマンリブ史観については、以前このブログでも「女性運動史をめぐる『江原史観』の問題とその影響」としてエントリ化したことがある。女性学の誕生とともに「主体」が女性学とかわっていき、運動が下火化していったとする歴史観であり、その後にも存在した運動がなかったかのような扱いになっている。斉藤さんが指摘するように、70年代はじめのウーマンリブ時代が「最高の運動」とみなされがち、という傾向もある。その裏には、リブ運動を振り返ることはできていても、その批判的検証が今でもできておらず、しづらいという状況があるのだとも思う。

リブ世代がいつまでも「あがめられ、批判されないまま運動に君臨する状態が続いていく」ことの限界を表した一例に、ファイトバックの会のケースはなったと思う。実際、謝罪に反対した側の多くがリブ、団塊世代であり、謝罪をすすめた側の多くは下の世代だった。もちろん世代だけで区切るわけにはいかないのだが、ひとつの運動内でも、リブ・団塊世代とその下の世代との、世代間の議論がうまくいかなかった一つの事例だと思う。

かとうちひろさんが同サイト内の個人的な反省点の中で、「上下関係に慣れてしまい「若い人(=責任のない立場)」に甘んじてしまっていたと思います。」と述べているが、「若い世代」とされる人たち、リブ世代以下の人たちの側も、「上下関係」に慣れてしまわないよう、常に意識しておくべきかもしれないと思わされた。

そして、上の世代の中でも、「原告」や「弁護団」などの批判がしづらい存在をつくってしまったし(「弁護団と支援者の関係性」参照)、斉藤さんが「地方在住会員の役割と中央/地方の関係性の問題点」という別記事で指摘しているように、中央/地方の関係性もトップダウン型だという問題点があった。

これらは、とくにファイトバックの会に限定された問題ではなく、他の多くのフェミニズム系運動にも当てはまる面があるのではないか。本来、そういった権力関係をつくらないことがフェミニズム運動の特色でもあったはずなのだが... 運動内部で忌憚のない批判や議論が足りていないことに、危機感を覚えている。

「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイト開設

当サイトでもファイトバックの会のネット発信に関する問題や、運動自体の問題をずいぶん扱ってきました。裁判のほうは、2011年1月に最高裁にて高裁判決が確定し、終了したし、ファイトバックの会も7月末で解散となるのだそうです。裁判が終わり、そして解散直前である今の時期に、元会員や現会員の有志が共同で、ファイトバックの会のネット発信を検証することからフェミニズム運動や裁判支援運動のネットやメディア発信について考えるサイトを開設したので、まずはそのお知らせまで。
「フェミニズムとインターネット問題を考える」

サイト中にも記載されていますが、このサイトは、2008年から9年にかけて、大阪で3度にわたって開催した、「フェミニズムとインターネット問題を考える」研究会の成果をまとめたものです。とくに非公開で開催した最初の2度の研究会においては、会のML、ブログ、HPなどのログをすべて詳細にメンバーで検証するとともに、会の運動の流れを見直し、運動論的なことについても議論を行いました。当サイトの執筆者たちをはじめ、研究会参加者は会の活動に何らかの関わりをもった人が多かったため、自己反省の視点とともに、何とか今後の運動では同じ失敗を繰り替えさないように、という強い思いを共有していました。そのためかどうかはわからないけれども、これだけ集中して、詳細に一つの事柄を検討できた研究会というのは、私にとっても初めてで、とても意義深い機会でした。研究会から2年がたち、今の視点から再度当時の発表内容を振り返り、若干の加筆などもしてまとめたのが、今回公開されたサイトということになります。

公開研究会およびサイトづくりで難しかったのは、実際の誹謗中傷の文言や、被害にあわれた方の告発をそのまま引用してしまうと二次被害を拡大することになってしまうので、それができないことでした。そういった限界もある中、ファイトバックの会で起きた事を事例としてしっかり記録に残し、かつ、分析や検証、反省を試みることで、今後のフェミニズム市民運動に少しでも役立てばという思いの中でサイトをつくりました。

それでも、まだまだ足りないことはたくさんあると思うので、ぜひご意見、コメントなどをぜひいただけたらと思っています。それで議論が深まっていけば嬉しいことです。

「国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催に反対する共同声明」賛同署名募集

国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催に反対する共同声明」賛同署名募集をはじめました。
ICUのミスコン企画に反対する会」サイトから署名できます。
https://sites.google.com/site/missconhantai/

以下、呼びかけ人による賛同募集文面です。
ICU関係者のみならず、学外の方々からのご署名も広く募集しています。
よろしくお願いいたします。

5日ほど前に、twitterにおいて、国際基督教大学ICU)において秋に開催される大学祭「ICU祭」のためのミスコン企画がでた、という情報が流れました。

これを皮切りにして、この5日間ほど、ネット上では大きな「ICUミスコン論争」が起きている状態です。
この動きに対して、在学生、卒業生と市民による有志が共同で執筆しました、『国際基督教⼤大学(ICU)におけるミスコン開催に反対する共同声明』を発表しました。

以下のURLでご覧いただけます。
https://sites.google.com/site/missconhantai/statement_jp

この共同声明に賛同するかたの署名を募集しております。以下のフォームにご記入のうえ、送信してください。

公開可となっている情報は、ミスコン主催団体やICU祭実行委員会、その他関係機関に送ります。また、ウェブサイト等での公開も行います。注意して「可・不可」の別を選択していただけたらと思います。

連絡先: ICUmissconHantai [AT] gmail [DOT] com
この署名ページのURL: http://bit.ly/MissconHantai

呼びかけ人一同
2011年6月10日

「国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催に反対する共同声明」公開

ICUのミスコン企画に反対する会」の有志が呼びかけ人となった、「国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催に反対する共同声明」を公開しました。

「国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催に反対する共同声明」