批判対象をぼやかし続ける伊田広行氏の論

 『ふぇみん』2006年10月5日号に、『「ジェンダー」の危機を超える!徹底討論!バックラッシュ』本のレビューが掲載されていた。
そこに、「多様さを認めること、対立を恐れることなく議論し合えること、「ジェンダー」の危機には共に立ち向かえることが、この業界の健全さを表している」という記述がある。
 多様さを認め、対立を恐れることなく議論しあえることは私も重要だと思うのだが、この本に関してそれが当てはまるとは正直いって思えない面がある。
 とくに、伊田広行氏の、「フェミニストの一部がどうしてジェンダーフリー概念を避けるのか」論文と、シンポ報告部分での発言部分(pp.181-182)に顕著だと思う。具体的な対象を曖昧にしたまま、批判を展開しているからだ。


 この伊田氏の論文は、脚注が皆無で、かつ、具体的な引用がゼロなのだ。
題名にもある、「フェミニストの一部」とは誰なのか?そして、言及されているのが、どこで誰がしている主張なのか、まったく書いていない。
そして、「フェミニストの一部」をいろいろ批判しているのだが、具体的な批判対象がわからないままだ。


 実際に「ジェンダーフリー」概念を使わないとオープンに言明している人たちは少ない。上野千鶴子さん、斉藤正美さんと私くらいだろう。また、macskaさんもブログにおいて、「ジェンダーフリー」概念をことさらに支持して使う立場ではないと言っており、『バックラッシュ!」本の執筆者のひとりの長谷川美子さんも自分では使わないという立場をとる。「館長雇い止め・バックラッシュ裁判」の原告、三井マリ子さんは訴状と陳述書の中で、「ジェンダーフリー」概念は自分では使ってこなかったと書いている。
 私が知る限り、「ジェンダーフリー」概念を使わないと文書で言明しているフェミニストはこの人たちくらいだ。そのうち、職業が学者であるのは、上野氏、斉藤氏と私くらいである。
 だが、伊田氏の文章では、断片的に様々な人たちがジェンダーフリー概念を使わないという立場をとっているかのように書いてあるのだ。


 そして、伊田氏は、学者が「私は使ってない」なんていうことは、どんな効果をもつのかと問うのだが(182)、この「学者」というのは誰を指しているのだろうか?学者で「ジェンダーフリー」概念を使わないと言明しているのは、先ほど書いたように、上野氏、斉藤氏と私くらいだ。そのなかで、いちばん発言の効果が高い人は、疑いなく著名であり、東京大学教授という職をもつ、上野氏だろう。伊田氏は上野氏の批判をしているのだろうか?それとも、ほかに発言の効果の高い人がいるのだろうか?
 もしこの批判が私のことを含むとしても、私が「ジェンダーフリー」概念を使ってないのは事実なので、ウソをつくわけにもいかない。それともそういうことは使わない人は言わずに、黙っていろということなんだろうか。「どんな効果をもつのだろうか」などという、威圧的レトリックさえ使っている。それは発言を封じ込めることなのではないかと思うのだが、その意図は何なのだろうか。


 また、伊田氏は、「ジェンダーフリー」概念を問いなおすことが、フェミニズム側に分裂を持ち込むと言う。だが、例えば私自身がしてきた問い直しは、「ジェンダーフリー」概念にまつわる事実を検証し、歴史を振り返ることでフェミニズムの戦略を検証しなおし、次につなげるためである。保守派に攻撃をうけている概念の検証が分裂を持ち込むというなら、macskaさんも言うように、保守派に攻撃されないフェミニズムの考え方などというのは考えられないのだから、フェミニズム運動についての検証が実質上不可能ということになりはしないか?バックラッシュ派に攻撃される概念は何がなんでも守るべきという考え方は、内部批判をおしつぶすことにつながる。そして、フェミニズム自体の発展を阻害することにもなるだろう。


 伊田氏は、ジェンダーフリーが初期において心のもちようとして使われたということを指摘しつつ、今更初期のことを持ち出すのもおかしいと批判している。(181)これは私への批判だと思われるが、私が『バックラッシュ!』本で書いたとおり、私は初期のみの話をしているのではない。初期に「心のもちよう」として紹介され、それを学者と行政が広げ、強化していったことにも触れている。「スピリチュアル・シングル主義」を唱えている伊田氏も、「心のもちよう」解釈に重点をおいた中心のうちの一人といえるだろう。


 また、「ジェンダーフリー概念を使わない人」は、ジェンダーを価値中立と捉えており、ジェンダーの理解が狭いからだとも言う。(237)
ジェンダーを価値中立と捉える人」がいったい誰のことを指しているのかまたよくわからないのだが、私はべつにジェンダー概念が中立だとは思っていない。(政府の「中立」解釈への批判も書いたことがある。)だが、「ジェンダー」が常に必ず「悪い」意味を表す言葉であるとも思わないのだ。
そして、「ジェンダーフリー概念を使わない人」は、研究実践の政治性を排除しているというのだが、これもいったい誰のどんな研究を指しているのか謎のままだ。「ジェンダーフリー概念を使わない学者」でいちばん精力的に研究活動を発表されてきているのはおそらく上野氏だと思うが、上野氏の研究実践が政治性を排除したものだと言っているのだろうか?


 そして、ジェンダーを豊かに理解すれば、ジェンダーフリーという表現に拒否感は出ないはずだとも言う。ということは、「ジェンダーフリー」という言葉を伊田氏と異なる意味で解釈している、バーバラ・ヒューストン氏をはじめとする、世界中の大部分のフェミニストたちは、ジェンダー概念の理解が豊かではないということなのだろうか。


 「自分が住んでいる日本のなかの運動現場に鈍感な人」が「ジェンダーフリー概念を使わない」とも言われるのだが(239)、これは私は日本に住んでいないから当てはまらないはずである。ということは、上野さんや斉藤さんのことなのだろうか?ずっと教育現場やフェミニズム運動現場で70年代から闘い続けている長谷川さんは「ジェンダーフリー」は使わないのだが、彼女は鈍感だというのか?


 敵や政治的文脈を見誤っている人が「ジェンダーフリー」を使わない立場をとっていると伊田氏は主張しているが、バックラッシュを批判し、闘いながら、フェミニズムの方向性を検証することは必要であり、可能だと私は思う。バックラッシュがあろうとも、フェミニズム自体の方向性はつねに検証し続けるべきだろうし、内部批判もオープンにしていくべきだろう。そして、自らの立場ーある言葉を使うとか使わないとかーも、自由に表明し、議論していかれるべきではないのだろうか。「こういう政治状況だからこれについては議論すべきではない」という言説こそ、敵や政治的文脈を見誤らせることにならないか。


 JANJAN掲載の中村孔司氏によるこの本の書評では、伊田氏論文について以下のように書いてあった。

ジェンダー」概念理解の狭さ、浅さ、真の敵の見誤り、また敵宣伝にはまる事等が、表記理由の主たるを充分に理解。

 伊田氏の文章にまったく引用がないため、伊田氏の文だけを読むと「こんなひどいことを言っている人たちがいるんだ」という解釈になってしまった結果がこの書評なのではないだろうか。だが、伊田氏の主張を読者が確認、検証したくても、何も引用が明記されていないので、不可能なのだ。


 批判対象は具体的に述べてこそ、「対立を恐れることなく議論をする」、ということではないのだろうか。


 批判されていると思われる当人(=私)としても、このように言及されず匂わされて、しかも私以外せいぜいほんの1〜2人しか言っていないと思われる主張にもかかわらず、大きな勢力かのように書かれるのも実に気持ちが悪い。