マスコミ学会での討論

6月10日に熊本で行われた日本マスコミュニケーション学会にて、斉藤正美さん荻上チキさん今井紀明さん北田暁大さんと一緒に、フェミニズムへのバックラッシュに関してのワークショップを行いました。
荻上チキさんのご報告の詳細はすでにご本人がブログにアップしておられます。その基調報告に関連して、討論者の私が話したことを若干手直ししたものを以下にまとめてみました。

ワークショップ全体についての短いレポートは、「ふぇみにすとの雑感」の「マスコミ学会ワークショップのレポートと感想」エントリにまとめてあります。
また、荻上さん今井さん斉藤さんのブログにもワークショップ全体や学会についてのレポートがアップされています。

テープ起こしをしてくださった、チキさん、ありがとうございました!
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私はウェブ上でブログをやったり、発信しているフェミニストなので、当事者的な立場からお話をさせていただきます。また、フェミニズムの運動体にも関わりをもってきたので、フェミニズムの運動において、いかにフェミニストがインターネットに関われていないのかというような問題の話もしたいと思います。

歴史が共有されないこと

今回「バックラッシュ」という現象が起きた際、フェミニズムの間では「うわうわ大変だ、今フェミニズムの最大の課題はバックラッシュだ」というようなことになり、それは今でも続いている。確かに地方議会などで大変な事になっている場合もあるのですが、それはこれまでに例を見ないような最大の事態なのか、という疑問があります。
そもそも、フェミニズムというのはこれまでずっとバッシングを受けてきたものなので、そのあたりの歴史観が欠けてきたというか、共有されなくなっているという感があります。
フェミニズムの動きも、保守派の動きについても、もっと歴史的に位置づけるべきなのではないでしょうか。

70年代の初期リブから、中ピ連、行動する会など、フェミニズムはずっとバッシングをうけてきました。マスコミ上での、国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会による、「つくる人、食べる人」コマーシャル抗議の際や、中ピ連の一連の動き、国際花博やミス東京コンテストの際の、ミスコン抗議行動に対するバッシングのみならず、82年の優生保護法改悪騒ぎのときの生長の家からの攻撃や、雇用機会均等法のときの経済界からの攻撃など、ずっとバッシングはあったわけです。もちろん混合名簿運動についても同様で、こちらはバッシング以前に、組合女性部からすら賛成されない、といった時期があったという状況もありました。

2002年、斉藤さんがフェミニズム系新聞「ふぇみん」に、バックラッシュフェミニストが言っているが、今までと違ってそんなに大変なのかという問題提起を行った(「足下でしっかりと対策を練ること」『ふぇみん』2002年9月25日)のですが、議論がここから発展することはなく、終わってしまった。東大ジェンダーコロキアム『ジェンダーフリー概念からみえてくる女性学・行政・女性運動」という集会で私が斉藤さんと一緒に、ジェンダーフリー概念と今のバックラッシュなどについて、フェミニズムバックラッシュの被害者だとばかり言っていていいのか、今までの行政密着型の女性運動の歴史を振り返る必要はないのか、ということを指摘しているのですが、これに対してなかなか「主流」の反応は難しかったですね。『バックラッシュ!』本にしても同様で、「主流」フェミニズムからは完全無視とまではいわないが、「バックラッシュ対抗本のうちの、フェミニズムの当事者以外がまとめた(=重要性が薄い?)一冊」という位置づけにされてしまっている気もします。(寄稿者の中には、上野さん、渋谷さん、小山さん、私、そして長くフェミニズム運動畑で活躍した長谷川さんなど、フェミニストの人は実はかなりいるのですが。)


フェミニズムとネット

90年代の頭までフェミニズムミニコミというものをそれぞれが持ち、マスコミ対応をしたり、マスコミを活用しているところもありました。とくに新聞媒体に関しては、女性記者とのつながりを深め、当の女性記者たち自身もフェミニズム運動体で活動するなどという例もありますし、マスコミ対応のノウハウはかなり蓄積されていたと思います。それに加え、ミニコミをメインの媒体として活動していたところに、90年代からインターネットというものが登場しました。
本来であればミニコミは印刷代、郵送料などとお金もかかるし、届く範囲も限られているので、すんなりネットに移行すればよかったのかもしれませんが、ネットはなかなか敷居が高く、導入が遅れてそのまま今に至っています。また、フェミニズムの中心の人たちが高齢化していくにつれ、デジタルデバイドの問題、つまりネットを使える人が少なかったり、そもそもパソコンを買えなかったり、家庭にあっても自分専用に使えなかったりといった問題がある。パソコンが家にたとえあっても、メール程度の利用に偏ることも多々あります。

そして、ウェブサイトを作る際にも、外注に頼って自分たちで更新しない状態になっている団体や個人サイトも多くなっています。例えば日本女性学会は外注でサイトをつくっているのですが、外注でつくったようなウェブサイトには見えない代物です。それに結構な予算を使っている。女性学会のみならず、多くのフェミニズム団体で、基本的にサイトは業者に頼んでつくってもらう物で、自分達でつくるものだというような意識はない場合が多いのではないかと思います。私が関わった団体でも、外注説を覆すのはものすごく苦労しました。外注にすると、迅速に更新することが難しくなります。また作業量が減るかというと、かえって業者に連絡をとる手間がかかったりして、仕事が増えてしまう場合もあります。

HTMLのスタイルを使っていて、更新がしにくく、ストップしているサイトもあります。自分達でやろうとしても、特定の人にばかり仕事が集中的にまわり、更新されなくなって終わると。インタラクティブweb2.0というものとはほど遠い世界です。

フェミニズムの人たちがいつも盛り上がって使っているのはメーリングリストなんですが、メーリングリストではやたらはりきっているのにネットでは発信しない、表には発信しない。そういう傾向があります。メーリングリストばかりが広がっていった結果、メーリングリストでメールを多く流す人が、あたかも「運動の世界で活躍している人」というような妙な権力図式のような物も出てくる。あるいはメーリングリストで有名人がたまに発言をしたりすると「すごいすごい」というような感じになったりもする。メーリングリスト頼りのコミュニケーションというものが―これはフェミニズムだけではないと思いますが――起きていて、それ以上に広がらない。バックラッシュのイメージというものも、メーリングリストから流れてくる「うちの地域では大変で」「ああ、うちの県も大変で」というような情報に偏り、それがミニコミやマスコミに取り上げられるときの情報源になったりもする。

実際にインターネットを見て、どういう事が起こっているからどう大変だ、というようなことを知っている人はわずかで、インターネットというのは怖いんだ、若い人が2ちゃんねるで叩いていて恐ろしいんだというようなことを、ネットは見ないままMLで言いあっていると。さきほどチキさんや北田さんが疑問を呈していた、2ちゃんねらーが弱者層の若者で右翼的だ、恐ろしい、というイメージが、実際にネットをみないままに広がっているという状況があると思います。

しかしながら、もともとミニコミをやっていて、発信するのは好きなはずのフェミニストたちが、どうしてネットには進出しないのか?という疑問もあります。実際、『30年のシスターフッド』というリブについての映画の上映ツアーをアメリカで行ったときに、ツアーに同行した日本のリブ世代の方々も、やり方さえわかれば、けっこう楽しくブログを書き、コメントを読んだりされていました。何かきっかけがあり、使ってみれば、面白い、、となり、けっこう広がるのではないかとその時思いました。

私が関わったある会はブログをつくって、関連書類や日々のニュースを発信するように利用しようと考えていたのですが、私と数人で最初に企画していた物と現在の物はすごくずれていて、メーリングリストの内容をそのままブログに載せてしまえというような状態になっており、ML用の情報とブログ用情報の使い分けもうまくできていない状態で、危惧しております。対応が大変だとか、バックラッシュ系のコメントがきたら面倒だという思いがあったのでコメント欄をつけず、トラックバック欄だけをつけたのですが、結局コメントがないので何を書いてもレスポンスが分からず、誰も2ちゃんねるをみていないから2ちゃんねるでどう叩かれていても知らないままで終わってしまう。例えばローカルなニュースが2ちゃんねるで取り上げられて祭り状態になったこともあったんですけど、それも誰も知らないまま。「ニュースになってよかったね」で終わって、ニュースで流れた後どうなっているのかというのは知らないまま突っ走っていくというような状況になります。
トラックバック欄は残しているので、そこをみてくれれば多少は分かるんでしょうが、トラックバックの使い方をわかっている人が少ないので、エロサイトからのトラックバックが放置されたままであるとか(会場、笑い)、そういう状態です。また、トラバを使っていないことで、読者も増えません。ですから、2.0どころか0.5、どころか0.1程度なのではないかなと。コメント欄も残すべきだったのではないかと、今でも時々考えるときがあります。

女性学者などがブログで発信するなどすれば、もう少しネットにおけるフェミニズムの存在感が出るかもしれませんが、バックラッシュが怖いと恐れているばかりでなかなか表に出て行かない。論争は極力避け、ネットは印刷物よりランクが下であると思っている面がある。
チキさんの「ジェンダーフリーとは」というサイトには相当数のアクセスがあり、注目を集めてきたのですが、学者によって存在についての言及はされても、具体的な中身についての言及はなく、批判があったわけでもなく、なんとなくスルーして終わるという感じになっている。

ネットにおけるバックラッシュというのを、実体験を通じて実感している層がフェミニストの間で案外少ないのかもしれません。体験がないのに、話だけきいて「ああ怖い」となっているのかもしれません。あるいは、ちょっとでも体験したとたんに、「怖い」となってひいてしまうとか。

なんのための「運動」か?

チキさんのコメントに「なんのために“運動”をしているのか」という質問が出てきたんですが、この間、75年の、「私つくる人、僕食べる人」のコマーシャルへの抗議をした人がシカゴにいらしたので話を聞く機会があったのですが、あのとき彼女は本当に叩かれたけれども、そんなことは気にならなかった。言えばインパクトがあり、世の中が本当に具体的に変わっていったから、叩かれようがなんだろうが全然気にならなかった、楽しかった、と言っていた。70年代頭のリブもそういう面があって、叩かれようがなんだろうが楽しかったではないか、こんなに私たちが変えたんだから、という想いはあったのではないかと思います。

でも、今現在のフェミニズムの目的といったら「バックラッシュへの対抗」が最大課題みたいになって、「ジェンダー」概念、「ジェンダーフリー」概念の死守というようなものになっているように思えます。「ジェンダーフリー」がちょっとやばくなってきたかな、という感じがあるからそれほどは表に出さなくなったけれども、今度は「ジェンダー」という概念がこれほどすばらしいと、そしてそれが日本に広く導入されたといわれる95年、あるいは基本法が通った99年こそがフェミニズム運動最高の達成で、今はその反動の時期、という歴史観が出てきたように思います。バックラッシュというものが課題になり、それに対抗するために、「バックラッシュの人による、男女同室着替えとかその手の批判から、ジェンダー概念を守らねば」ということで、ジェンダー概念を過度に美化するところがある。民族や階級に比べても革新的な概念で、「ジェンダー概念さえあれば全てが語れるのだ」というところまで、最近のフェミニズム系の人が書いている本を読むと言っているような気がしないでもない。でもそれはやはり無理で、ジェンダーで全てを語れるわけがない。

ジェンダー論の授業などでも、例えばネットに掲載されている、日本の多くのシラバスを見ると「ジェンダーとは何か」という抽象的なところから始まったりしている。それでは、普段の生活の問題にアピールはできないだろうなと思います。フェミニズムは自分の日々の生活、想いからでてくるはずのものだったのに、上から教えられるものになった。大教室授業など、今の大学の枠内でやらないといけないという限界もあるとは思いますが。また、ジェンダーシラバスや、教科書からの運動史の欠落も目につきます。

議論ででてきたように、ジェンダー論のひとつのモデルみたいなものができてきてしまい、それが多様性の欠落にもつながっているかもしれません。教科書的な書物ばかりが出版される現状も、その傾向のひとつかも。そして、「男女共同参画」と言い始めてから特につまらなく、啓蒙的になってしまった。チキさんが言われるように、「お勉強」しないとわからないものになってしまい、一般からどんどん離れてしまっている側面もあるように思います。

2003年には日本女性学会が、元々ニュースレターとしてあったコンテンツ(「Q&A-男女共同参画をめぐる現在の論点」)をネットで公開するんですが、これのせいでチキさんなどがネットで流言を論破していくのになかなか苦労したんじゃないかなと予想されるような、そういう内容のものでした。こういったQ&Aの使い方がまさに上から教え、異論をはさむ余地を難しくするといったもので、それ以外の回答を女性学会のような権威が言いがたくしている。

チキさんのQ&Aサイトの場合、私はそれを完璧なサイトだとは思わないけれども、それでも意見があったらそれを受け入れたり、コメントを書いたりしてチキさんは作っていたけれども、フェミニストの出すもの、全員ではないけれども偉い先生が出すようなものは、ウェブサイトにポーンと載って、それに対する意見はどこに出せばいいのかわからない。日本女性学会サイトなど、メールアドレスも載っていない。このQ&Aをはじめとするサイトに掲載された情報は、完成したものとしてそこにあるだけで、インタラクティブではない。

ただ、マーケティング的に考えろといわれると、それもわかるんですが、正直ちょっとどうかな、と反発を感じる面もあります。フェミニズムは確かに私もつまらなくなっていると思っているし、「格好よい」方がいいとも思うけれど、私はダサイものも好きなんですよね(笑)。フェミニズムは基本的に社会に異議申し立てるところがあるから、それほど流行に乗れないのは確かで、それをどう捉えるかは難しいところだとは思います。

でも、私自身は、フェミニズムは、楽しくなきゃやれません。叩かれますしね。それでも、フェミニズムは自分にとっても必要だと思っていますし。でも、「正しい」のがつまらないというのは分かります。私から見てもつまらないなあと思うフェミニズムもたくさんあるし。また、世代間ギャップもひしひしと感じるときもあります。

フェミニズムが強者の論理として語られていること。確かにそういう面も、とくに「男女共同参画」時代にはいってからはあると思うし、フェミニズム自体も、女性学、行政がリードするフェミニズムという面はあって、フェミニズム自体の問題として「ジェンダー」ばかり意識し、他の問題は不足しているという問題はある。でも、それと同時に、女の強者の論理だ、怖い怖い、という反発は75年の時もあったし、85年の時もあった。歴史的にはいつもあることでもあるので、今だけ特殊な論理でもないとも思います。

ずっとバックラッシュをする主体になっている人達が「弱者男性」である、というような考え方に基づいてフェミニズムが議論をしている事に疑問を挟んでいたのですが、今日はチキさん、北田さんのお話を伺って、こういう検証作業が進みつつあるのはフェミニズムも考えていかなくてはならない事だとますます思いました。今まで、思い込みに従ってやってきたところはすごくあると思います。
また、今井さんがおっしゃっていたように、インタラクティブという形でやっていくことも重要だと思いました。一方的に発信するばかりではなく、何らかのコミュニケーションをする事で進んでいく面が重要だと思いました。それがブログというメディアの可能性でもあると思いますし、今のフェミニズムの弱いところだと思います。