三井マリ子・浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄』に関してひっかかったこと

三井マリ子浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄 フェミニスト館長解雇事件』(旬報社 2012年)。裁判の際の陳述書がもとになったという三井マリ子氏の記述、弁護士2名(寺沢勝子弁護士・宮地光子弁護士)によるエッセイ、浅倉むつ子氏が裁判所に提出した意見書による書籍である。書籍のうち、三井氏による1章が全体の三分の二以上を占めている。

裁判闘争だったということで、書類などの証拠に基づいた論理展開をつくる必要があり、その面で具体性をもつのはこの本の強みではあるだろう。だが、全体的に、表現上の印象操作的なことが多く行われすぎており、そのぶんせっかくの具体性という強みが弱まっているようにも思われる。そして、『バックラッシュの生贄』という書籍タイトルからもわかるように「バックラッシュ」に焦点があたり、もともとの争点だったはずの「雇止め」のほうへの言及が少なくなってしまったのは残念だった。

この本については、すでに遠山日出也氏が詳細な内容の紹介および書評を書いているので、具体的な内容の紹介はそちらをご参照いただきたい。このエントリでは遠山氏の書評も参照し、書籍に加え、6月1日に行われた「『バックラッシュ』を跳ね返して、新しい時代へ」院内集会の動画この集会の案内はこちら)についても多少言及しつつ、以下、いくつかの点について、私がひっかかったことを挙げていきたい。


1)実名を出していることについて

三井マリ子氏の執筆部分に関しては、実名てんこもりである。実名だしについて許可をとっていないだろうと推測される方々のお名前もたくさんでてくる。さらには、必ずしも必要がないだろうと思われる人たちの実名まで書いてある。このように、おそらく許可なく実名を出し、しかも公人のみならず一般市民に対しても行っていることは、かなり人権への配慮を欠いている行為なのではないかと非常に気になっている。

この書籍の実名だしの問題として、まずは出てくる方々の実名が、どこでどうやって知り得た情報なのか(行政のセンターの館長としての職務上知り得た情報なのか)の問題がある。市/財団に雇用された館長として知り得た情報なのだとしたら、それを不特定多数に対して、許可もとらずに後日公開するということはどうなのか。さらには、裁判文書としては実名が必要になるのだろうが、それと単行本は目的が異なっている。書籍として一般に知らしめる文章としてみた場合、実名出しに関する判断も変わってくるのではないか。裁判文書は公文書であるとはいえ、広がりという面では限界がある反面、書籍は広く一般にむけて公開するものであり、書籍において実名(しかも裁判上の被告でもない人たちの実名)が本当に必要な情報であるのかにも疑問が残る。さらには、先日、ネット中継された院内集会でも実名を出されていた市民がいたが、ネットという書籍以上に不特定多数にむけているともいえるネットメディアでの、当事者の許可なしでの実名出しはどうなのかの問題もあるだろう。

三井氏に質問および面会があると夜の会合に臨んだ3人の市民(p.22)についてだが、どのような政治的立場の人たちであろうとも、市民が公的施設であるセンターの館長に質問および面会があるといってアポをとってきたということなので、この方々のお名前を了解もとりつけていない状況の中で出す必要はないだろうし、まずいと思う。逆にフェミニズムや左派側の市民らが例えばセンターのやり方に意見があって館長に面会を申し入れて会うということもありうるわけで、それが後日このようにいきなり許可もなく書籍に実名いりで批判的に書かれても良いということになってしまう。

遠山さんのエントリで言及されている、貸室申し込みにきた人たちについても(これはすてっぷに勤務していたからこそ知り得た、市民の個人情報といえるのではないか)、私的に連絡をしてきた女性労働団体の事務局の方についても、お名前を出す必要は、私もまったくないと思う。

さらには、「バックラッシュ派」だとされた人物の親族であるというだけで、この件に関しての関わりがない方までもがお名前を出され、ご本人に確認もできていないだろう中、想像に基づく肩書きがだされているのも問題だ。「個人」単位を尊重するフェミニズムとそもそもずれた方向性ではないだろうか。


2)「形容の仕方」に関して

遠山さんが言語表現について実例を具体的にあげて言及されているが、同感だ。
行政側の人や「バックラッシュ勢力」など、原告と対立する立場にたったとされた人たちの「形容の仕方」に相当に脚色がはいっているように感じた。こういったアジり調の形容はファイトバックのブログでも強くみられたパターンだが、それがそのまま書籍に書かれている感じをうける。アジることで、印象操作となってしまい、「煽り」につながり、人権侵害を起こしやすくなったというのが、ファイトバックの会のブログでの展開だった。(ファイトバックの会のブログをめぐる問題に関しては、斉藤正美さんの「ブログにおける煽りと誹謗中傷への展開」を参照。)書籍においても、文章表現に著者の「感情」が表にですぎて、読むのが辛いものがあった。淡々と事実を書いたほうがよほど説得力があったように思う。

例えばp.110「”この嘘つき野郎ども”と申し上げましょう」、そしてその後に続く「これは私の推理ですが、、」という文など、まず悪い印象を与えておいて、単なる「推理」に基づいたことを言うなどだ。

さらには、遠山さんも挙げているが、すてっぷの元事務局長に関して、「今こうして人権文化部の企てに忠実に従ったY[原文は実名]のことを書いていると、かのルドルフ・アイヒマンが脳裏に浮かびます。ナチ親衛隊中間管理職として、百万単位のユダヤ人をせっせとアウシュビッツなどの絶滅収容所に送った、あのアイヒマン中佐です」と記述していることがある(p.138)。
仕事が倫理的にまずかったということを主張したいのなら、事実を淡々と並べればよいことなのに、全然違う事柄を並べて関連づけてしまっている。ここまで言ってしまうのは、元事務局長の人権侵害ともいえないだろうか。
バックラッシュ」を「ファシズム」と、出版記念集会の宣伝などでも呼び続けているようだが、これも逆効果なのではないかと思う。


3)記述内容のソース問題

三井氏記述部分には、又聞きに基づいた記述が含まれているのも疑問だ。例えば議員が刃物を出して脅したこともある(p.24)は又聞きの事柄である。これが裁判書面として提出されたことにも私は違和感をもっていたのだが、ここでもそのまま掲載されている。


4)バックラッシュの捉え方について

日本会議」が司令塔で、バックラッシュは組織的な動きである、というのが、書籍中では三井氏、浅倉氏によっても、さらに先日の院内集会では紀藤弁護士によっても、繰り返されていた。私自身も同裁判への意見書やその他の出版物で全国的な動きということを過度に強調してしまったと今振り返れば思うので、反省しなくてはいけない点でもある。そして、これはおそらく女性学ジェンダー研究界隈で中心的な見方でもあった。さらにはこの裁判は裁判戦略上「組織的」動きというのを強調したいという狙いがあったためもあるだろう。

だが、浅倉氏にしろ、紀藤氏にしろ、どういう具体的な事実やデータに基づいてこういうご発言をされているのかはわからないままである。浅倉氏の意見書についても日本会議が中心で司令塔的役割を果たしたという趣旨のことを述べている。*1 だが、ソースも示さず、具体的にどのような事実に基づいて、「バックラッシュ」が「組織的」であり「司令塔」だといっているのかは見えない。過度に「司令塔」だと強調することの問題は大きいと思う。逆に保守の草の根的な動きやつながりが見えなくなるなどもあるだろう。

さらに、複数団体名を名乗っていることが謎に満ちたことであり、だから組織的なのだという主張なのかと思われる記述もあったが、これはフェミニズム系団体もよくやるように、要するにシングルイシューで運動体を複数つくっているというパターンでもある。同じ人が複数団体に関わるというのも、市民運動ではよくあることでもある。それをもって「いくつもの顔をもつ」「組織的」とするのなら、複数団体に属しているフェミニズム側も同じ表現で批判されうることになってしまう。


5)「あとがき」での記述と支援者の位置付け

前館長をめぐる記述は、おさえめではあるが、決してポジティブではなく、否定的な印象を与えるという遠山さんの視点には同感である。
そして、原告自身や自分の裁判の支援団体が前館長にネットを通じて誹謗中傷を行ってしまったことへの言及や反省は書籍にはまったくなかった。

「一審敗訴後に去った人も少なからずいましたが、そんな逆風にもめげず(……)」(p.222)と、今でも「逆風」扱いのままにしているということには、落胆した。私も一審判決後(厳密には二審の途中)に去ったが、それは会が引き起した前館長へのネット上の誹謗中傷問題への、原告および会の対応にあまりに問題が多く、さらには裁判の主張になっていた「人格権」と根本的に矛盾すると考えたからだ。

不思議だったのは、普通フェミニズム系の裁判闘争の報告という性格の書籍には、裁判支援団体関係者も執筆したりすることがよくあると思うのだが、原告、意見書を書いた学者、および弁護団から2名が書くにとどまり、支援者は執筆していない。なぜそうしたのかはわからないが、この裁判における支援者の位置付けや、弁護団や学者と支援者の権力関係が、この執筆者の選択に表れているようにも思えてしまう。

裁判においては、支援者が、傍聴の人数、お祭り的なイベントを開催して盛り上げる役を期待され、原告個人の「苦難」が強調され、それへの支援運動になってしまったような側面があったと思う。裁判自体の内容について理解したり、積極的に関わることは期待されておらず、支援者は原告や弁護団、学者に「教えていただく」役割にとどまってしまい、より広い問題として世に問うとか、議論を巻き起こすという方向性につながりづらかった。


6)「特別な人たちの裁判」という印象と「雇止め」問題

宮地弁護士による文章は「私にとって三井マリ子さんは、長い間、マスコミ報道や書物を通じてしか知ることができない著名なフェミニストでした」という一文から始まっている(p.167)。そして、三井マリ子氏は弁護団のことを「超豪華弁護団」と書く(p.221)。お互いの達成を評価したいという気持ちから出てもいる言葉なのだろうが、これでは「著名なフェミニスト」と「超豪華弁護団」による特殊な事件という印象を与えてしまう。さらに、この書籍のタイトルが『バックラッシュの生贄』であること、書籍全体が「バックラッシュ」に焦点をあてたため、雇止め問題が見えづらくなってしまったことも加わり、男女共同参画センター等への非常勤労働問題をはじめとした、多くの人たちに関わる他の雇止めを巡る問題などへの広がりをもちづらいという問題もあるだろう。


7)地域と男女共同参画フェミニズム

遠山さんのエントリに書かれたことと私自身の解釈と若干違うかもしれないと思ったのが、三井さんの館長としての仕事への評価に関してだ。これは裁判書面からそうだったが、また書籍の形で読んでみて、どうしてもひっかかるのが、「館長として行った意義ある仕事」としてリストされているのが、英語講座、ノルウェーから人をよんだこと、ヨーロッパのポスター展などの「海外のすすんだ情報を紹介する」系統がひじょうに多かったことだった。ここで見えないのが、豊中市民のニーズはどこに?という点だ。裁判支援にまわった一部の人たちでなく、市内に住む多くの人たちのニーズをどれだけ発掘しようとされてきたのかどうか。そこが見えてきづらかった。これはこの事例に限らず、地域住民のニーズなどよりも、上からの啓発に流れてきてしまった男女共同参画行政そのものの問題点でもあるのかもしれない。


参考:

「『バックラッシュ』を跳ね返して、新しい時代へ」集会動画(全部で4本あったが期間限定公開ということでもあり、現段階で全部は見つけられず。)
http://www.ustream.tv/recorded/22997698
http://www.ustream.tv/recorded/22997705
http://www.ustream.tv/recorded/22998207

*1:「全国組織を背景としており(一九九七年に創立された「日本会議」が中心)、ねらいを定めた地方自治体において...」(p.182)と浅倉氏は記述している。この部分6/10/2012加筆

遠山日出也さんの書評:三井マリ子・浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄』

遠山日出也さんが三井マリ子浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄』について詳細な書評をブログに書かれています。
書評:三井マリ子・浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄』

遠山日出也さんによるWAN労働争議問題まとめサイト

遠山日出也さんが、ブログにWAN争議の問題点をまとめ、労働問題のみならずサイト自体の問題などにまで踏み込んだエントリをアップされています。

WAN争議が提起した課題と現在のWANの問題点

また、WAN争議の流れや関連エントリへのリンクをまとめたサイトも作られています。

ウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)の労働争議・まとめ

WANのみならず、フェミニズムその他の市民運動団体における労働問題にも踏み込んだ内容となっています。ぜひご覧下さい。

「国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催中止をうけての共同声明」

ミスコン企画の主催団体から、ミスコン開催を中止するという声明が出たのに対し、「ICUのミスコン企画に反対する会」有志による共同声明を出しましたのでお知らせします。

国際基督教大学(ICU)におけるミスコン開催中止をうけての共同声明

相変わらずの伊田広行氏の曖昧すぎる「ジェンダーフリー」関連の批判

久しぶりに伊田広行氏のブログを読ませていただいたら、「チェルノブイリハート」など原発映画関連の議論なのに、なぜか「ジェンダーフリー」への言及がある最近のエントリを発見。で、読んでみたら、どうみても私のことを言及していると考えられるが、相変わらず名指しでの言及でも、具体的な批判でもないというものだった。2009年女性学会のワークショップで、学者なのだし批判や反論するなら、あくまでも具体的に誰の論考のどの部分を指しているのか、明白にしてすべきという主張を私はしたつもりだったのだが... 相変わらず曖昧すぎる批判である。

例えば以下の部分。

ジェンダーフリーを批判した人と同じだなと思う。ジェンダーフリーは、草の根でひろがった概念だ。でもバックラッシュに攻撃されると、学者の一部や行政の多くは、その使用をいち早く辞め、中には「私はジェンダーフリーは一度も使っていない、賛成しない、科学的でない」というような人が現れた。
日本の現状も知らずにさかしらに、「ジェンダーフリーを言うのは、日本のフェミニズムのだめさだ、行政お抱えの運動に過ぎない」、というような人まで現れた。
暇な人はネットなどでもそうしたことをいって、まるで自分が従来の日本のフェミ運動のだめさを超えた偉い人であるかのように言う人がいた。

バカなインテリの典型だった。
存在に意義がなく、ただ自分が正しいと言いたいだけの「子ども」だった。
日本のバックラッシュ状況の中で、自分の言動が誰を利してだれの足を引っ張り、実際に日本社会の性差別状況やフェミ運動にどういう影響を与えるのかが分からない困ったチャンであった。

ジェンダーフリーを使うことが「科学的でない」という批判をしたフェミニストを私は知らない。誰の事だかすらもわからないが、「ジェンダーフリーを使っていない」といった人なら、過去において上野千鶴子さん、id:discour 斉藤正美さん、(『バックラッシュ!』に寄稿している)長谷川美子さん、そして私、と数人は少なくともいる。でもその人たちは私も含め、ジェンダーフリーが「科学的でない」などとは言っていないはずだ。それとも誰か別にそういう人がいたのだろうか。

だが、「行政お抱えの運動」といった批判、あるいは「日本の現状も知らずに」という箇所は、米国在住で、「ジェンダーフリー」概念の行政主導の歴史、という側面を批判した私のことを指している可能性がひじょうに高いように思える。(斉藤正美さんもありうるが。)「日本の現状も知らずに」扱いを、上野さんや(まあ上野さんの理解される「現状」も限定されているだろうとは思うが)、富山で地元の運動にずっと関わってきた斉藤さんに対して伊田さんが言えるとしたら、それはそれですごいと思うが。あるいは、ネット上で伊田さんの批判エントリをいくつか書いている、米国在住のid:macksaさんのことも指しているのだろうか。そのあたりはわからないが、まあ普通に考えて、一番可能性が高いのは私なんじゃないかと思う。

で、私のことを指しているとすれば、「バカなインテリの典型だった。存在に意義がなく、ただ自分が正しいと言いたいだけの「子ども」だった。日本のバックラッシュ状況の中で、自分の言動が誰を利してだれの足を引っ張り、実際に日本社会の性差別状況やフェミ運動にどういう影響を与えるのかが分からない困ったチャンであった。」というのはかなりすごい言われようである。ここまで言うのであれば、もっと具体的に批判してくれないことには、単なる私の人格批判になってしまっていると思うのだが。私の存在に意義がなくて、「子ども」で、「困ったチャン」って言われているようだからだ。伊田さんだって研究者だし、さらには研究者に限らず、運動家でも、一般市民でも、こうした具体性を書いた人格批判みたいなことをするのはどうなのか、今後の議論として発展する要素はないのではないかと正直いえば思う。

とはいえ、2009年の女性学会ワークショップでの議論も実りのある方向にすすんだとは言えなかったと思うし、伊田さんが私に対してお怒りであるとか、批判をとてもしたいとかだったとしても、それはわかる面もあるし、それはぜひご表明していただければと思う。でも批判するなら、ぜひ具体的に、名前を出して、しかも私の主張のどの部分にどのようにご批判をされたいのか、明記していただけるようにお願いしたい。でないと、本当にフェミニズムにおける議論がまったくすすまないことになってしまうように思うからだ。

伊田さんはさらに以下のように続ける。

だが、さかしらなのは嫌いだ。インテリ的な学問の権威に依るのは嫌いだ。偉そうなのは嫌いだ。主流秩序に加担するのは嫌いだ。
ジェンダーフリーでは、そこの感覚が問われた。
ぼくはある程度、意見の異なるものでも、その意図が善意で、まあまあ人権擁護の方向のものなら、主流秩序を揺るがすものなら、批判するより黙っておきたいと思う。仲間の不十分性は補うことがあっても自分だけ正しいとして安全地帯に逃げない。
そしてすばらしい作品には賛辞を送りたいと思う。
ある作品をほめると、『こんな作品をほめるのか』といわれる可能性はいつでもある。それを恐れて、なんでも批判する人に、私はならないようにしたいと思う。
ダメなインテリは、難しい本や映画や音楽をほめ、流行歌や分かりやすい本、俗なものなどをばかにする。
ジェンダーフリーというのは、学問の概念ではないなどという言い方をしない人になりたいと思う。
ええかっこして、小難しいものを小難しく論じる理屈屋にならないでおこうと思う。
美術館で、美術作品を、言葉で解説して見方を誘導するような、つまらない解説や評論をしないようになりたいと思う。
宗教を学問のようにしている人になりたくないと思う。
現場から、自分から、底辺から、僕は考えるようにしたい。
実践に役立つことを基準に判断したいと思う。

私がいつ「インテリの学問の権威」に頼ったのかもよくわからないが(私のことを指しているのかすらわからないけれども)、「ある程度、意見の異なるものでも、その意図が善意で、まあまあ人権擁護のものなら、主流秩序を揺るがすものなら、批判するより黙っておきたい」というご意見には賛成できない。善意だったら批判しないで黙っているということでは、学問も、さらにはフェミニズム運動も発展しないのではないか。逆に善意だろうが意見が異なるのであれば、異論を述べるなり批判するなりして、議論を重ねることで、いろいろなものが見えてくるのではないか。例えば今の私がいる、圧倒的に白人中心のコミュニティという環境で「白人へテロフェミニスト」たちの言うことはおそらくほとんど善意だろうとは思う。しかしながら、マイノリティのフェミニストとしての観点から、異論を述べたり批判せねばならないことなどいくらでもある。「善意」だったら批判しないで黙っているというのは、結局、マイノリティの意見を黙らせることにもつながるのではないか。さらには「主流秩序」に関して、いったい誰がどういう立場にたって、それが「主流」だと決めるのかどうか。何が「揺るがす」ものであると誰が決めるのか。

さらには、「日本の現状も知らずに」という批判。日本の女性学界隈から私に対してぶつけられるよくある批判でもあると思うのだが、「日本の現状」とは、いったい何を指すのだろう。私は最近は1年に2度のペースで日本にいっているが、もちろん大部分はアメリカに住んでいる。しかしながら、「日本の現状」というのも多様であり、いろいろな人たちにとっての様々な現状があるはずだ。住んでいるだけで「日本の現状」がわかっているといえるのか。住んでいないと、それが自動的にわからないことになるのだろうか。もちろん、住んでいないことでわからない面が多々あることは認めるが、例えば私が日本にいく1ヶ月とか2ヶ月の間、あちらこちらに調査に走り回って、さまざまな人たちにとっての「現状」について見聞きしようとしていることは、何ら意味をもたないことなんだろうか。私は日本に普段住んでいないだけで、日本を対象に調査研究していても、どれだけフィールド調査に走り回っても、いつまでたっても「日本の現状」をわかっていない扱いをされ続けるのだろうか。
私はアメリカに住んで長いが、「アメリカ」という国に私が住んでいることで知っている「アメリカの現状」は、アメリカのほんの一部のとても限定されたものでしかないと思っている。「日本の現状」にしても同じことだと思う。そして、例えば伊田さんは、ご自身が住まわれている環境の外で起きている「日本の現状」について、どこまでご理解されているということになるのだろうか。「日本に住んでいる」から、あるいは日本で何らかのご活動をされているから、ご理解されているということにつながるというのだろうか。そのあたりも、具体的に書いてくださらないと、わからないままだ。

勢いでエントリ書いてしまった気がしないでもない。こういう曖昧な批判に反応すること自体がどうかとは思いつつ、でもちょっとこれはとりあえず、あまりにあまりだと思えたので、記録の意味も兼ねて、エントリとしておく。

団体アカウントでの匿名発信とその責任のありか

「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイトで、私の担当箇所では、匿名発信の問題を扱った。この場合の「匿名発信」とは、実名を使わない発信という意味ではなく、個人としてのハンドルネームを使わずに、団体アカウントを使い、更新者が誰か(ハンドルネームでも)明らかにならない状態でネット発信をすることを指している。

「ネット・メディア利用全体として」においては、以下のように書いた。

インターネットでの発信が普及するにつれ、運動体が団体のアカウントを使い発信するケースも増えた。それに伴い、団体名やアカウントを使い、団体に属する個人がその更新を担いつつ、個人的な意見を表明したりするケースも見られるようになった。団体としての発信なのか、個人的な意見なのか区別がつけづらい場合が多いし、発信者が個人としての名前やハンドルネームを使わず、団体名だけで発信する場合、発信者が誰かが明らかではなく、その発言の責任の所在がどこなのか不明になりがちである。

このように団体アカウントの中に隠れて、匿名のまま個人的スタンスが打ち出された発言をするということは、記述内容の責任を誰がとるのかが不明であることもあいまって、無責任発言、誹謗中傷が起き易い土壌をつくりだしがちだ。印刷媒体なら出す際に編集、校正をしっかりするなどして、団体としての発信であり、編集責任があることが自覚されることが多いが、ネット発信、しかもパーソナルな声や即興の発信がしやすい、ブログ、SNS(twitter, mixi, facebookなど)においては、団体や世話人レベルでの文面などの検討プロセスを経ずに発信される。そういった発信や記述内容の責任は誰がとるのかは不明なままのケースも多い。団体の代表なのか、それとも発信者なのか、団体の中でも曖昧にすまされていたりする。また、ネット媒体においてどのような発信をするべきなのかも、発信者個人におんぶにだっこになり、団体として考えていないことも多いし、団体のメンバーが知らないままである場合もある。

この問題提起は、「団体で意見が一致しなければいけない」とか「団体、フェミニズム全体の印象を悪くするのをやめろ」という主張ではなく、発言の責任のありかを団体でしっかり議論し、誹謗中傷や人権侵害を起こさないシステムをつくること、また万が一、自団体の発信が人権侵害などの問題を引き起した場合、どのように対応し、必要なときには謝罪をするのかも、しっかり議論することが必要だという主張である。


また、ブログに関しても、団体名を使っての匿名発信の問題を扱った。(ブログ設置の目的・経緯と匿名発信の問題

ホームページに比べ、ブログは更新ハードルが低く、パーソナルな発信をしやすいメディアだった。最近、より更新ハードルが低い、twitterfacebookなどのSNS媒体が増えている。また、SNSはブログよりもよりパーソナルな要素を打ち出している面があり(例えばtwitterの「つぶやき」など)、文章確認などのプロセスをせず瞬時に発信することができるメディアでもある。こういったSNSアカウントにも、市民団体のアカウントがあり、その中で個人が発信をしているが、その個人が誰かは明らかではなく、団体のアカウントにおいてきわめて個人的な発信をしているケースも見受けられる。だが、ファイトバックの会のブログのケースでわかるように、団体アカウントを匿名個人が利用して発信するということは、もっとも発信者の責任が問われづらく、誹謗中傷も起き易い土壌をつくるのではないか。

ファイトバックの会のブログやホームページでは、更新者が誰かを団体内でさえもはっきり明示していなかったし、とくに原告が実質上の更新者だったブログにおいては、「Webチーム」として集団更新かのように見せてしまってもいたため、ますます責任のありかが不明になりがちだったと思う。私がファイトバックの件から得た教訓は、ハンドルネームでもいいから、いったい誰が、何人の人が更新作業に関わっているのかなど、更新の状況について団体内はもちろんのこと、外部にむけても明らかにすべきだったということだ。もちろん常にこの方法がよいかどうかはわからないが、最低限、団体名を使ってのネット発信の場合、個人発信ではなく、団体のスタンスであると捉えられること、そしてそこでの更新者、発信者情報が不明のままだと、誹謗中傷につながりやすいことを意識して発信を行うこと、そして何らかの問題がおきた場合の対処の方法や責任のありかについて、団体内でしっかり話し合うことは重要だと思う。

「支援運動」のジレンマとフェミニズム

先日公開した「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイト内容に関して、いろいろ考えていることの続き。

サイト制作に参加した人たちによる「個人的反省点」で浮かび上がったテーマの一つは、支援運動とは何か、どう「支援」すべきなのか、という点だったと思う。ファイトバックの会は、裁判支援団体であり、原告の闘いを支援する、というのが大きな運動の目的だった。だが、その場合の「支援」とは何を意味するのか。フェミニズム運動においては、ファイトバックの会のような労働裁判のみならず、性暴力やセクハラ裁判の原告支援運動もあるし、またDVや性暴力、セクハラなどの被害にあった人たちの支援をするという運動もある。そこでは、「原告や被害者の立場にたちきること」「原告の意思を尊重すること」が重要であるという価値観がある。確かにそれはひじょうに重要だ。フェミニズム運動の根幹をなす価値観の一つであるともいえるのかと思う。

だが、「100%」、いかなる場合にでも立ちきるべきなのかどうか。これを問われたのがファイトバックの会のケースだったように思う。謝罪をすすめようと動いた、今回当サイトを共同でつくった人たちの場合、フェミニズムにおけるさまざまな「支援」の運動ー例えば裁判支援や、性暴力被害者を支援する運動、女性候補の立候補や選挙を支援する運動などーに関わってきた人たちでもあり、「支援というものはどうあるべきか」についてつきつけられたのだと思う。これは、「原告の意思と支援者の信念がズレた場合どうすべきなのか、という問題でもある。しかも、ファイトバックの会の事例の場合、このズレは瑣末な問題ではなく、第三者の人権を侵害してしまったという、ひじょうに重要な問題に関係した。

きろろさんは以下のように述べる。

Bさんの誹謗中傷投稿について見逃してしまったのはこういった背景と、世話人会、ML、交流会を通じて形成されていたこの裁判は原告を支援する裁判で、原告の立場に100パーセント立ちきること=被告の誹謗中傷はしてもよい=被害者支援というものであるという考えが私にもあったため、誹謗中傷投稿がなされても流している状態であった。

また、宮下奈津子さんも以下のように言う。

・被告側の書面に私が触れたのは、第1審の最終準備書面だった。ワード化する作業のために初めて見たのだが、これをもっと早い段階から見ていれば、もう少し違うことができたかもしれないと思う。原告が世話人にもこれを公開しないことの意図はわかっていたので、無理に公開は求めなかったが、やはり支援運動には必要なことだったと思う。原告の意思は尊重しなければという思いこみが私にも強くあり、それが運動を広げることを妨げていたと思う。

きろろさんも宮下さんも、「原告の立場にたちきる」「原告の意思を尊重」という価値観と、会が起こした誹謗中傷にどう対処するかとの間で葛藤があったということだと思う。私自身も、原告がブログを更新していたという事実を、これを表に出さなくては本当にどうしようもないと思う段階まで出さなかったことには、こういった価値観が影響していたのだと思う。裁判支援の運動をしているのだから、とにかく「原告の意思を尊重」「原告を守る」ことを優先せねば、という思いがあった。

また、遠山日出也さんも、原告への敬意や気づかいが重要であることは述べつつ、行き過ぎると逆効果になりうると主張している。

12.私のMLでの言葉づかいを振り返ってみると、原告に対して気の使いすぎ、敬語の使いすぎ、へりくだりすぎている部分が若干あることに気が付いた。今読むと、原告を批判しにくい雰囲気を少し作っている感じがある。困難が多い裁判を進めておられる原告への敬意や気遣いは重要だが、それが行き過ぎると逆効果になることもあるというのが今回の教訓である。

会の中で謝罪問題でもめて、まだ謝罪反対派の人たちとメール議論や交換ができていた頃(その後、それすらできない状況になってしまったが)、ある世話人の方から「私は原告の意思は何でも尊重し、言うこと、やりたいことは何でも支持する決意」といった趣旨のことを言われたことがある。私はこれは違うと思った。原告に対して、何か疑問があったり、間違っていると思ったら、それを言っていくのが運動でもあり、原告が言うことを何でも尊重し、何でもそれに従うというのは、(少なくとも私が思う)フェミニズム運動のあり方とは違うのではないかと。

遠山さんは以下のように述べる。

また、私は、誹謗中傷に対して疑問は感じても、「原告だから(or地元の方々だから)、私などより、いろいろよく知っているのだろう」とか、「70年代からリブ運動をして来られた鍛えられた方だから、そういう見方が正しいのかな?」と思って、十分主体的な判断ができなかったこともあった。謙虚さは必要だが、少なくともわからない点はきちんと質問するべきだった。もし、質問していて、それに対するきちんとした返答がなければ、自分も、他の会員も、疑問を強めることができていただろう。

前日のエントリにも共通するが、「「原告だから(or地元の方々だから)、私などより、いろいろよく知っているのだろう」とか、「70年代からリブ運動をして来られた鍛えられた方だから、そういう見方が正しいのかな?」と思ってしまい、質問すらしづらくなってしまう雰囲気というのは、どうにもまずい。私自身も遠山さん同様、遠方在住だし、大阪のことはよくわかってないし、弁護団会議にも世話人会にも出ていないし、、などと理由をつけて、疑問があっても提示しなかった場合もたくさんあった。それでもやはり、きちんと質問すべきだったし、おかしいと思えば疑問も提示し続けるべきだった。少なくともML上は世話人会の一員だった、MLの管理もしていた私がそういったことを積極的にやっていたら、他の会員ももっと疑問を提示しやすい雰囲気につながったかもしれない。

フェミニズム運動のあり方、とくに「支援運動」というもののあり方について考え直させられた機会でもあったのだと、今、(まだ工事中箇所は残っているが)ほぼ完成したサイトを読み直して思う。