三井マリ子・浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄』に関してひっかかったこと

三井マリ子浅倉むつ子編『バックラッシュの生贄 フェミニスト館長解雇事件』(旬報社 2012年)。裁判の際の陳述書がもとになったという三井マリ子氏の記述、弁護士2名(寺沢勝子弁護士・宮地光子弁護士)によるエッセイ、浅倉むつ子氏が裁判所に提出した意見書による書籍である。書籍のうち、三井氏による1章が全体の三分の二以上を占めている。

裁判闘争だったということで、書類などの証拠に基づいた論理展開をつくる必要があり、その面で具体性をもつのはこの本の強みではあるだろう。だが、全体的に、表現上の印象操作的なことが多く行われすぎており、そのぶんせっかくの具体性という強みが弱まっているようにも思われる。そして、『バックラッシュの生贄』という書籍タイトルからもわかるように「バックラッシュ」に焦点があたり、もともとの争点だったはずの「雇止め」のほうへの言及が少なくなってしまったのは残念だった。

この本については、すでに遠山日出也氏が詳細な内容の紹介および書評を書いているので、具体的な内容の紹介はそちらをご参照いただきたい。このエントリでは遠山氏の書評も参照し、書籍に加え、6月1日に行われた「『バックラッシュ』を跳ね返して、新しい時代へ」院内集会の動画この集会の案内はこちら)についても多少言及しつつ、以下、いくつかの点について、私がひっかかったことを挙げていきたい。


1)実名を出していることについて

三井マリ子氏の執筆部分に関しては、実名てんこもりである。実名だしについて許可をとっていないだろうと推測される方々のお名前もたくさんでてくる。さらには、必ずしも必要がないだろうと思われる人たちの実名まで書いてある。このように、おそらく許可なく実名を出し、しかも公人のみならず一般市民に対しても行っていることは、かなり人権への配慮を欠いている行為なのではないかと非常に気になっている。

この書籍の実名だしの問題として、まずは出てくる方々の実名が、どこでどうやって知り得た情報なのか(行政のセンターの館長としての職務上知り得た情報なのか)の問題がある。市/財団に雇用された館長として知り得た情報なのだとしたら、それを不特定多数に対して、許可もとらずに後日公開するということはどうなのか。さらには、裁判文書としては実名が必要になるのだろうが、それと単行本は目的が異なっている。書籍として一般に知らしめる文章としてみた場合、実名出しに関する判断も変わってくるのではないか。裁判文書は公文書であるとはいえ、広がりという面では限界がある反面、書籍は広く一般にむけて公開するものであり、書籍において実名(しかも裁判上の被告でもない人たちの実名)が本当に必要な情報であるのかにも疑問が残る。さらには、先日、ネット中継された院内集会でも実名を出されていた市民がいたが、ネットという書籍以上に不特定多数にむけているともいえるネットメディアでの、当事者の許可なしでの実名出しはどうなのかの問題もあるだろう。

三井氏に質問および面会があると夜の会合に臨んだ3人の市民(p.22)についてだが、どのような政治的立場の人たちであろうとも、市民が公的施設であるセンターの館長に質問および面会があるといってアポをとってきたということなので、この方々のお名前を了解もとりつけていない状況の中で出す必要はないだろうし、まずいと思う。逆にフェミニズムや左派側の市民らが例えばセンターのやり方に意見があって館長に面会を申し入れて会うということもありうるわけで、それが後日このようにいきなり許可もなく書籍に実名いりで批判的に書かれても良いということになってしまう。

遠山さんのエントリで言及されている、貸室申し込みにきた人たちについても(これはすてっぷに勤務していたからこそ知り得た、市民の個人情報といえるのではないか)、私的に連絡をしてきた女性労働団体の事務局の方についても、お名前を出す必要は、私もまったくないと思う。

さらには、「バックラッシュ派」だとされた人物の親族であるというだけで、この件に関しての関わりがない方までもがお名前を出され、ご本人に確認もできていないだろう中、想像に基づく肩書きがだされているのも問題だ。「個人」単位を尊重するフェミニズムとそもそもずれた方向性ではないだろうか。


2)「形容の仕方」に関して

遠山さんが言語表現について実例を具体的にあげて言及されているが、同感だ。
行政側の人や「バックラッシュ勢力」など、原告と対立する立場にたったとされた人たちの「形容の仕方」に相当に脚色がはいっているように感じた。こういったアジり調の形容はファイトバックのブログでも強くみられたパターンだが、それがそのまま書籍に書かれている感じをうける。アジることで、印象操作となってしまい、「煽り」につながり、人権侵害を起こしやすくなったというのが、ファイトバックの会のブログでの展開だった。(ファイトバックの会のブログをめぐる問題に関しては、斉藤正美さんの「ブログにおける煽りと誹謗中傷への展開」を参照。)書籍においても、文章表現に著者の「感情」が表にですぎて、読むのが辛いものがあった。淡々と事実を書いたほうがよほど説得力があったように思う。

例えばp.110「”この嘘つき野郎ども”と申し上げましょう」、そしてその後に続く「これは私の推理ですが、、」という文など、まず悪い印象を与えておいて、単なる「推理」に基づいたことを言うなどだ。

さらには、遠山さんも挙げているが、すてっぷの元事務局長に関して、「今こうして人権文化部の企てに忠実に従ったY[原文は実名]のことを書いていると、かのルドルフ・アイヒマンが脳裏に浮かびます。ナチ親衛隊中間管理職として、百万単位のユダヤ人をせっせとアウシュビッツなどの絶滅収容所に送った、あのアイヒマン中佐です」と記述していることがある(p.138)。
仕事が倫理的にまずかったということを主張したいのなら、事実を淡々と並べればよいことなのに、全然違う事柄を並べて関連づけてしまっている。ここまで言ってしまうのは、元事務局長の人権侵害ともいえないだろうか。
バックラッシュ」を「ファシズム」と、出版記念集会の宣伝などでも呼び続けているようだが、これも逆効果なのではないかと思う。


3)記述内容のソース問題

三井氏記述部分には、又聞きに基づいた記述が含まれているのも疑問だ。例えば議員が刃物を出して脅したこともある(p.24)は又聞きの事柄である。これが裁判書面として提出されたことにも私は違和感をもっていたのだが、ここでもそのまま掲載されている。


4)バックラッシュの捉え方について

日本会議」が司令塔で、バックラッシュは組織的な動きである、というのが、書籍中では三井氏、浅倉氏によっても、さらに先日の院内集会では紀藤弁護士によっても、繰り返されていた。私自身も同裁判への意見書やその他の出版物で全国的な動きということを過度に強調してしまったと今振り返れば思うので、反省しなくてはいけない点でもある。そして、これはおそらく女性学ジェンダー研究界隈で中心的な見方でもあった。さらにはこの裁判は裁判戦略上「組織的」動きというのを強調したいという狙いがあったためもあるだろう。

だが、浅倉氏にしろ、紀藤氏にしろ、どういう具体的な事実やデータに基づいてこういうご発言をされているのかはわからないままである。浅倉氏の意見書についても日本会議が中心で司令塔的役割を果たしたという趣旨のことを述べている。*1 だが、ソースも示さず、具体的にどのような事実に基づいて、「バックラッシュ」が「組織的」であり「司令塔」だといっているのかは見えない。過度に「司令塔」だと強調することの問題は大きいと思う。逆に保守の草の根的な動きやつながりが見えなくなるなどもあるだろう。

さらに、複数団体名を名乗っていることが謎に満ちたことであり、だから組織的なのだという主張なのかと思われる記述もあったが、これはフェミニズム系団体もよくやるように、要するにシングルイシューで運動体を複数つくっているというパターンでもある。同じ人が複数団体に関わるというのも、市民運動ではよくあることでもある。それをもって「いくつもの顔をもつ」「組織的」とするのなら、複数団体に属しているフェミニズム側も同じ表現で批判されうることになってしまう。


5)「あとがき」での記述と支援者の位置付け

前館長をめぐる記述は、おさえめではあるが、決してポジティブではなく、否定的な印象を与えるという遠山さんの視点には同感である。
そして、原告自身や自分の裁判の支援団体が前館長にネットを通じて誹謗中傷を行ってしまったことへの言及や反省は書籍にはまったくなかった。

「一審敗訴後に去った人も少なからずいましたが、そんな逆風にもめげず(……)」(p.222)と、今でも「逆風」扱いのままにしているということには、落胆した。私も一審判決後(厳密には二審の途中)に去ったが、それは会が引き起した前館長へのネット上の誹謗中傷問題への、原告および会の対応にあまりに問題が多く、さらには裁判の主張になっていた「人格権」と根本的に矛盾すると考えたからだ。

不思議だったのは、普通フェミニズム系の裁判闘争の報告という性格の書籍には、裁判支援団体関係者も執筆したりすることがよくあると思うのだが、原告、意見書を書いた学者、および弁護団から2名が書くにとどまり、支援者は執筆していない。なぜそうしたのかはわからないが、この裁判における支援者の位置付けや、弁護団や学者と支援者の権力関係が、この執筆者の選択に表れているようにも思えてしまう。

裁判においては、支援者が、傍聴の人数、お祭り的なイベントを開催して盛り上げる役を期待され、原告個人の「苦難」が強調され、それへの支援運動になってしまったような側面があったと思う。裁判自体の内容について理解したり、積極的に関わることは期待されておらず、支援者は原告や弁護団、学者に「教えていただく」役割にとどまってしまい、より広い問題として世に問うとか、議論を巻き起こすという方向性につながりづらかった。


6)「特別な人たちの裁判」という印象と「雇止め」問題

宮地弁護士による文章は「私にとって三井マリ子さんは、長い間、マスコミ報道や書物を通じてしか知ることができない著名なフェミニストでした」という一文から始まっている(p.167)。そして、三井マリ子氏は弁護団のことを「超豪華弁護団」と書く(p.221)。お互いの達成を評価したいという気持ちから出てもいる言葉なのだろうが、これでは「著名なフェミニスト」と「超豪華弁護団」による特殊な事件という印象を与えてしまう。さらに、この書籍のタイトルが『バックラッシュの生贄』であること、書籍全体が「バックラッシュ」に焦点をあてたため、雇止め問題が見えづらくなってしまったことも加わり、男女共同参画センター等への非常勤労働問題をはじめとした、多くの人たちに関わる他の雇止めを巡る問題などへの広がりをもちづらいという問題もあるだろう。


7)地域と男女共同参画フェミニズム

遠山さんのエントリに書かれたことと私自身の解釈と若干違うかもしれないと思ったのが、三井さんの館長としての仕事への評価に関してだ。これは裁判書面からそうだったが、また書籍の形で読んでみて、どうしてもひっかかるのが、「館長として行った意義ある仕事」としてリストされているのが、英語講座、ノルウェーから人をよんだこと、ヨーロッパのポスター展などの「海外のすすんだ情報を紹介する」系統がひじょうに多かったことだった。ここで見えないのが、豊中市民のニーズはどこに?という点だ。裁判支援にまわった一部の人たちでなく、市内に住む多くの人たちのニーズをどれだけ発掘しようとされてきたのかどうか。そこが見えてきづらかった。これはこの事例に限らず、地域住民のニーズなどよりも、上からの啓発に流れてきてしまった男女共同参画行政そのものの問題点でもあるのかもしれない。


参考:

「『バックラッシュ』を跳ね返して、新しい時代へ」集会動画(全部で4本あったが期間限定公開ということでもあり、現段階で全部は見つけられず。)
http://www.ustream.tv/recorded/22997698
http://www.ustream.tv/recorded/22997705
http://www.ustream.tv/recorded/22998207

*1:「全国組織を背景としており(一九九七年に創立された「日本会議」が中心)、ねらいを定めた地方自治体において...」(p.182)と浅倉氏は記述している。この部分6/10/2012加筆