『バックラッシュ!』本の原稿執筆の背景と、私にとっての読者共同体
『バックラッシュ!』本をめぐって、「読者共同体」関連の議論がブログ界隈でなされている。
その中で、ターゲットの読者が「都市部の大学院生」層であるとか、その「共同体」の外との関係はどうだとかいう議論になっているようだ。(詳細や関連ページなどはid:leleleさんのブログをご参照ください。)
私をこの『バックラッシュ!』本の企画に誘ってくださったのはmacskaさんで、私が長谷川美子さんと瀬口典子さんを誘った。ターゲットは「都市部の大学院生」という説、確かに冒頭の宮台氏のインタビューはじめ、『バックラッシュ!』本の最初のほうの数本の論文に関してはそういえるのかもしれない。だが、少なくともmacskaさんを起点とした、私ー長谷川、瀬口という流れ(無名フェミの流れか?)は、都市部の院生をターゲットとしてはいないと思う。第一、院生相手なら、もっと有名人フェミニストを選んだほうが「とりあえずこの有名学者が言っていることは読んでおかねば」といった院生や研究者系が買いそうである。
私自身は、『バックラッシュ!』の中で、自分の論文のほか、バーバラ・ヒューストンさんとジェーン・マーティンさんのインタビューを担当させていただいた。確かに、女性学者を読者として想定はしていた面はある。でも、都市部の学者や院生をとくに意識して、私はこの仕事をしたわけではない。
もともと企画がきたときに、『男女平等バカ』などに対抗するような、一般むけの本、ムック風な本だときいていた。だからこそ、この本が出るのは価値があることだと思い、企画に参加させていただいた。(逆に、純粋にアカデミア対象の本だとしたら、企画に参加してなかった可能性もあるな。)そして、一般むけを意識して書いた。都市部の院生に限ったことではまったくない。
「都市部の院生」説に対して、双風舎の谷川さんは、想定読者層として、「一定の知的レベルにあるバックラッシャーや女性学研究者、政治家やその周辺の職員、官公庁の職員、小・中・高校の教員、宮台さんや上野さん、斎藤さん、小谷さんらの固定読者など」と、もうちょっと広い層をあげている。谷川さんが想定された読者たちは、もちろん私も想定はした。だが、それだけではない。地域で地道に草の根的な運動をしている人たちに、私はいちばん読んでほしいと思った。そして、それを念頭において、この仕事をさせていただいた。長谷川さんをぜひ執筆陣に、と推薦させていただいたのも、現場で運動をしてきた人の声を本に反映させ、重要なのに無視されがちな運動の歴史を記録することに大きな意味があると思ったからだ。また、瀬口さんをすすめたのも、現場でバックラッシャーたちが「科学」を言い訳につかう主張をしているのを見聞きしてため、瀬口さんの知見は運動をすすめる上でも役だつと思ったからだ。そして、できあがった本を私が献本させていただいた先も、実は運動に関わる人たちが大部分である。
- 私にとっての「わかりやすさ」の重要性
ヒューストンさんとマーティンさんのインタビューでは、とにかくわかりやすく、一般の人にわかるように説明してください、とお願いした。私自身が教育学専門ではないこともあって、素人の立場から、私が聞いてわからないこと、また、日本の読者たちにわかりづらいと思われることなどは、すべて聞くようにした。そして、噛み砕くように、わかりやすく説明してくれた彼女たちはさすが、プロの教育者だと思った。インタビューの翻訳原稿ができた後も、chikiさんをはじめ、何人かの方々のアドバイスを受け、できる限りわかりやすく、混乱を避ける文章をめざし、注釈も一般読者むけを意識してつけた。ヒューストンさん寄稿の、ジェンダーフリー概念をめぐる短文についても同じである。この短文だけは、絶対に誤解を与える要素があってはいけないいう思いで、翻訳チェックに際しては、念には念をいれた。(それでも私の力不足から、足りない点もあるだろうが、、)
なぜここまで「わかりやすさ」にこだわったかといえば、「ジェンダーフリー」という言葉がまず誤読に基づいて紹介されたことを起点として、この言葉の意味のあいまいさのために、混乱をきたしている現状があったからだ。意味がわかりづらいものをここで提示してしまうことの、マイナスの政治作用は大きいと思ったからだ。とくにこれに関しては、わかりやすい文章で書くということは、絶対的に重要だと考えた。
私の論文に関しても、とにかくわかる文章で書きたかった。草稿もまた数人に読んでいただき、わかりづらいと指摘されたところは極力直す努力をした。草稿を読んでいただいた中で、私にとってもっとも重要なアドバイスは、アカデミアとは関係をもたない、運動家からのものだった。運動に関わる人たちに理解できない文章を書いてしまっては、私の文章の目的として、まったく無意味だと思ったからだ。不必要にわかりづらい文章を書くことの無意味さを、常日頃、アメリカのアカデミアで実感し、議論していることもある。
大学院時代の教授のひとりだったルース・ビハーさんという著名なフェミニスト人類学者がいるが、彼女のエスノグラフィーの書き方の授業をとったとき、彼女は「私は、(キューバからの移民で英語ネイティブではない)自分の母親が読んでわかるものを書きたい」と言っていた。また、現在シカゴで一緒に仕事をさせていただいている、ノーマ・フィールドさんの書かれたものを読んでも、同様なスタンスを感じる。私はこういったスタンスに、共感するし、(まだまだ力が足りないが)ああいう、「思い」が伝わる仕事ができたらいいなと思っている。
- 私の経験とつなげたいという思い
「ジェンダーフリーをめぐる混乱の根源」という文章を2004年の年末に書き、それが主にネットを通じて様々なところで引用などされていくにつれ、私が「ジェンダー概念屋」や、「ジェンダー理論屋」みたいに(日本語の世界では)思われつつある?という違和感ももちはじめていた。でも、本来、私はフィールドワーカーだ。そして、日本のフェミニズム運動に参加しつつ、研究をしてきた。そのフィールドワークの部分や、実践の部分が、これまで主にネット媒体を通じて、日本語で書いてきたものから抜けてしまっているという気がしていた。
この『バックラッシュ!』の原稿では、自分自身のフィールドワーカーかつ運動家としてのフェミニズムへの関わりと、、ジェンダーフリー関連の主張をつなげたいという思いがあった。自分自身のやってきたことや思いが濃く反映されている、文章を書きたかった。
そして、私が博論で扱い、「最後の新入会員」(といっても、活動は引っ越し手伝いくらいしかできなかったが)でもあった、「行動する女たちへの会」へのオマージュ的な意味もある。元中心的な会員だった、長谷川美子さんの文章も同書に収録されていることから、その意味合いは強まったと思う。また、行動する会のみならず、「30年のシスターフッド:70年代ウーマンリブの女たち」プロジェクトなどでも浮かび上がった、女性運動史が歴史から消されていること、それを伝えることの重要性の問題がある。また、2005年に解散した「女性連帯基金」へのオマージュ的な意味もある。私は立ち上げ時の事務局員として、事務所のセットアップ、集会企画からニュースレターの発行、日々の雑用まで、行動しつつ学んだ。連帯基金は、いろいろな出会いのきっかけもつくってくれた、とても大切な場だった。同時に現在の女性運動が抱える、財政難、若年層の不在、企画のいきづまり感なども内包し、「男女共同参画」の流れにもはいりこんでいたが、結局解散に至ってしまった。そして、アカデミアと運動の乖離問題、女性学やジェンダー研究(だけではないが)の言葉が一般に通じないものになってしまっていることなども含め、私が様々なプロジェクトに関わることで生じて来た問題意識を反映させた文章にしたかった。
私は、草の根フェミニズム運動に関わっている人たちにいちばん読んでいただけたらと思って書いたのだ。だから、出版後の今も、フェミニズムの草の根運動に関わっている方々、そして、ブログなどでの一般の読者たちからの感想が、いちばん嬉しい。
ところで、今のところ私に個人的にはいってくる感想をみると、冒頭の宮台氏のインタビュー、草の根系のフェミニストたちにひどく評判が悪い。ここまで強い反応が出るのはどうしてなのか(まあ、正直いってわかる気もするが)、かえって興味が出て来た。草の根フェミ系友人たちに会う機会に、いろいろ聞いていようかと思っている。
最後に、この本で「金儲けを企む」という説があるようだが、、生活苦しいので、正直儲かったらいいだろうな〜とは思うが、ボストンでのマーティン&ヒューストンインタビューの取材費用(飛行機&宿泊代など、経費は自腹です〜)などもあったし、実は赤字の可能性高そうな雲行きである。。でも、赤字になっても、インタビューしてよかったと思うし、原稿も書いてよかったと思っている。自由に書かせていただいた双風舎の谷川さんには、本当に感謝している。
自分の文章を書いた背景を簡単にメモっておこうと思ったら、ずいぶん長文になってしまった。。なので、こちらの「論考」ブログに載せておきます。