日本女性学会ワークショップ『「ジェンダーフリー」と「バックラッシュ」を再考する』をふりかえって

昨日の日曜日、お茶の水女子大学で開かれた日本女性学会大会にて、ワークショップ『「ジェンダーフリー」と「バックラッシュ」を再考する』を開催した。コーディネーターは荻上チキさん(id:seijotcp)、斉藤正美さん(id:discour)と私、発言者は、伊田広行さん、金井淑子さん、細谷実さん、井上輝子さん、オンライン参加で小山エミさん(id:macska)という顔ぶれだった。

まずコーディネーター3名が、女性学会の「外部」として(斉藤、山口は中枢を担ってこなかった立場で、荻上は非会員)問題提起を行い、ほかの発言者にレスポンスをいただいた後で、オープン議論という形式だった。

このワークショップの概要は以下。

フェミニズム内の多様な立場から、「バックラッシュ」に関する書籍、サイトなどの編集、執筆に関わり、積極的に発言をしてきた発表者により、「ジェンダーフリー」をめぐる論争について今現在の観点から再考したい。また、言論、運動、およびネット空間における、女性学の「バックラッシュ」対応についても、参加者もまじえて議論したい。


上記からわかるように、主要なテーマは「女性学のあり方をふりかえること」。後に会場からは、そのテーマ自体を誤解されていたと思われる方からの発言があったが、あくまでも「バックラッシュの現状を報告」というのが主要テーマだったわけではなく、「女性学のあり方を振り返り、議論し、再考すること」がテーマだった。プレ研究会のときには最初にこのワークショップの狙いを説明したのだが、そういえば昨日は同じことをやるのを忘れてしまった!ということで、誤解を招いたのは司会の私の責任でもあるのだが、いちおうプログラムに意図は書いてあったつもりでもあった。

参加者は70−80名ほどいらしたのかな。私が70部すってきた資料がなくなっていたので、80人くらいはいらしたのかもしれない。かなり広めだった部屋(100人以上収容)だが、かなりの席がうまっていた。

以下、いくつか私の視点からみた印象など。
-「批判」に弱すぎる女性学

私の発表の中でも指摘したのだが、いまの女性学会における女性学は批判に弱く、異論があってもおさえこまれ(「バックラッシュ対抗」というのが言い訳によく使われる)議論があまり成り立たない傾向がある。それと同じ現象が昨日も見られたのだった。私がパワポで、発言者となっていた学者たちを名指しで批判したことにずいぶんこだわっていた。だが、名指しで(というか、具体的に引用し、誰のどこでの発言かを明白にして)論評なり批判を行うというのは、学者として当たり前のことであるはず。そこにこれだけこだわり、嫌がるというのがとにかくフシギだった。斉藤さんが発言し、id:cmasakさんも報告しているけれど、「研究者として批判されたことがないの?」と私も本当に思った。常勤職をとって、学会で「先生」的立場を確立すると、批判されなくなってしまうのだろうか。学生にたいしては「指導」という形で批判すれど、お互いはなあなあな世界となっている?「フェミニズム論争の時代」とやらは、いつの間に、どこにいってしまったんだろう?とにかく批判に弱すぎる、というのが第一印象だ。
そして、名指しで批判する私のやり方(当たり前だと思うのだけれど)は、「作法違反」ととらえられるようでもある。「ジェンダーフリー騒動」というトークのタイトル(「騒動」部分)も悪いとイダさんからご批判うけたのだが、あれはやっぱり私からみれば「騒動」だったんだけどなあ。

最後のまとめとして発言したけれど、こういう議論の場で「批判」することと、個人的なレベルのことといっしょくたにされると困る。学者というのはある意味、批判したり論評したりしながら、新しいものをつくりあげていくというのが仕事でもあるわけで、それをパーソナルに捉えるのは違うと思う。
パネリストからも会場からも出た、「けんかしないで仲良くしようよ」「連帯こそが大切だよ」発言というのは、そうした議論や批判の役割、および異論をおさえつける役割を果たしていると思う。連帯すべき、できると判断したときはもちろんすればいいのだが、何がなんでも「連帯すること」が目的と化してしまっては本末転倒で、内部批判を経験しないフェミニズムというのは、どんどん弱いものになってしまうばかりだろう。id:o-tsukaさんが、「仲良く議論する方法はある」というが、時にはああいうふうにストレートに議論すること、そして、そこでの議論をパーソナルなレベルで捉えないことも重要だと私は思っている。

-私への批判の集中と、チキさんのスルーされっぷり

プレ研究会のときと同じで、予想通り、レスポンスでは最初に、チキさんや斉藤さんではなく、私に批判が集中した。その後斉藤さんが「チキや斉藤は仲間にいれてやってもいいが、山口はダメ」という分断作戦か、と指摘されるくらい、私へ批判が集中した。トークの内容じたいは、3人で前もって相談し、パワポも事前に交換してコメントしあったりもしていたので、トーンとしては3人ともそう違ったとは思わないのだが。
こうやって自分に批判が集中する現象というのも考えてみると興味深いところがあるんだよなあ。逆に、昨日のワークショップの中でのチキさんの問題提起も発言も、発言者たちによってほとんどとりあげられることがなかった。ネット関係の知識がチキさんのほうが圧倒的にあるというのが見えているから、これは議論できないと思っての事なのか。それに引き換え、私は「勉強不足」「批判マナーができてない」的に批判された(まあマナーについては、チキさんも若干いわれていたようだが)。私は昨日は、ちょっと一歩ひいたようなトーンで発言していたつもりなのだけれどなあ(司会をかねていたのもひとつの理由だが。)私とチキさんが受けた正反対の反応というのがなかなか興味深いものがあった。(あ、ちなみにid:o-tsukaさんがブログで私の声のトーンについて言及されていたが、まあたしかにちょっと緊張していたのもあったけれど、もとからああいう声なんです。子どもの頃はよく「泣きそうな声」とかからかわれていたものだった(笑))

-斉藤さんの発言に対してのフロアからのものすごい誤解と、女性運動の方向性

あるWAN関係者の学者の方から斉藤さんに対して「学者は組んで運動するなということなのか、研究だけしていろと言いたいのか」というご発言があった。あのう、最初の自己紹介部分聞いてくれたんでしょうか。斉藤さんほどに、研究しながら、同時に地域で草の根女性運動に長年関わってきた人って、女性学会の中にはそんなにいないはずなんだけどな。そして、「男女共同参画」的な、センターづくり、条例づくり運動などにもすべて深く関わり、その結果の反省的な分析視点があっての、昨日の発表だったわけだ。そして、斉藤さんのみならず、私だって日米両方でなんだかんだと運動に関わっているわけで、「研究者は研究だけして、運動するな」という立場とはほど遠い。あまりにすごすぎる誤解っぷりにびっくりした。それとも 運動とは「研究者どうしと組んで、リーダーシップをとる活動」という意味でもあるんだろうか。「ほぼ研究者だけでグループ組んで、リーダーシップをとるフェミニズム活動」はたしかに斉藤さんも私も関わった事はないと思うが、私は運動体での下働き的な動きはけっこうしてきた人間だ。

まあしかし、誰が運動をこれだけやってきたかどうというレベルの競争をしても意味があることではない。そうではなくて、斉藤さんが指摘したのは、官僚とどっぷり組んでお任せ体制で「運動」を統括するような活動を行ってきた学者たちのあり方だと思う。そして、「運動」をなぜか「学者」たちのみが統括するような状況になってきてしまった、ここ10年ほどのあり方だ。裏を返せば、「女性学」に対して(および「行政」に対しても)、ストレートに異議申し立てしたり、批判したりする方向性の女性運動体がなくなってきてしまった、というこの約15年だったともいえるだろう。(そういった意味でも、私は「行動する女たちの会」の96年の解散は、シンボリックなものだったと考える。)

先日、私がトークとパネルディスカッションに参加させていただいた、富山での「高岡女性の会連絡会」の解散集会はその意味でも興味深かった。会の代表の方は、会の活動が行政への「要望」中心−というか、ほとんどその連続−になってしまい、その限界がきたのではないかという見方を提示していたのだ。ある意味、この10年ほどの「男女共同参画」時代の女性運動の行き詰まりを示してもいる解散でもあったのかな、という気がした。斉藤正美さんがその集会の中で「「行政密着型、要望型の運動からの脱却」という意味と捉えれば、この解散はすごくプラスの方向性だと思う」といったようなことを発言されていた。行政と学者によって主導された「男女共同参画」、そしてそれによりそうようにすすんできた女性運動は過度期にきており、新たなあり方を模索していかなければならない時期なのだと思う。

-「勉強不足」批判

伊田さんが以前ブログで書かれた、「山口智美さんなどはフェミを誤解している」発言。伊田さんは昨日、私が女性学とかフェミニズムをいっしょくたに語っていると批判されてもいたのだが、伊田さんのいう「フェミを誤解している」という表現は、どうしても「フェミニズムすべて」を誤解しているというように捉えられるのだが、、昨日の話だと、どうやら伊田さんバージョンの「ボクのフェミ」を誤解している、というようにも思われたのだが、そうだとするとずいぶんブログ掲載文章とはニュアンスが違うぞ。で、私の伊田さん版「ボクのフェミ」の理解が伊田さんより低いのは当たり前なわけで、、。「ボクのことを知りもしないで」批判するのも問題だ、と言われたが、その言葉をいいはじめたら、そっくり私だって「私のことを知りもしないで」と言えてしまうわけで、堂々巡りで議論は発展しないだろう。私は「伊田広行研究」を専門にしている研究者ではないのだし、そんなすべてのことを知ることはできないぞ。(でも、昨日のワークショップで言ったように、ぜひ伊田さんのインタビューはさせていただきたいと思ってます。)
で、いちおう研究者どうしの議論なのだが、一方を「勉強不足だ」と批判してくる、ってのはある意味すごいなと思った。先生目線というかなあ。これは私のほうが年齢的に若いからなのか、それとも女性学会での幹事経験などもなく、新参者的な扱いだからなのか。

そして、id:cmasakさんエントリに書いてある以下のやりとりを読んだ。

「そうなんだよ、山口さんがオレのフェミを批判する分には構わないんだけど、フェミニズム全体を批判するんだよね」と。……。

フェミニズム全体」なんて私は批判しているつもりはない。「日本における日本女性学会的な(=主に幹事会、ですね)フェミニズム」は批判したけれど、日本女性学会フェミニズム、なんて思ってないし。そういうフェミニズム伊田さんもほかの昨日の発言者の方々も、幹事としてご活動されていた)と、「オレのフェミ」と、両方批判しているつもりです。

-「ピンク本」

ワークショップの中で、何度か「ピンク本」が話題となった。双風舎発行の『バックラッシュ!』本だ。イダさんは、上野千鶴子さんと私のピンク本での解釈が違っているから訂正させたいといったことを言われたりした。しかしながら同時に、「現場」というが、あの本の中での長谷川美子さんの論文だって、「ジェンダーフリー推進」してきた立場の教員の方とは違う、長年混合名簿を推進してきた草の根運動家かつ教員としてのスタンスからの「現場」の声だという指摘もあった。(私もあの本の中でいちばん重要な文章は長谷川さんのだと思っている。)フロアにいらしていた双風舎の社長の谷川さんは、あの本の「多様性」をうちだす、というスタンスについてご発言された。
出版から数年たっているのに、まだこれだけ議論のネタになるってのはある意味すごいことだが、裏を返せば今まで議論できなかったということでもあるし、それも「多様性」をうちだすストラテジーをとったからともいえるのだろう。当時でた他の「バックラッシュ対抗」をうたった書籍との最大の違いはここだとも思うし、だからこそ、すんなり受け入れられがたい書籍になったのかもしれない。

-「ジェンダー」至上主義?

金井さんがプレ研究会および昨日配布されたレジュメをみると、「ジェンダー」乱舞という感じである。配布された論文のなかでは、「ジェンダー概念」という言葉と「ジェンダー」という言葉は交換可能みたいに使われていて、英語に慣れた人間からみると、ものすごい言葉の使い方的に違和感を感じる文章となってもいる。
まあその言語的違和感はおいておいても、「ジェンダー概念」ってそんなに重要なのか?これもまた、歴史の一幕として、その過程で時折意味も変わってきたり議論されたりして、一定の役割を果たした言葉ではあるだろうが、その概念こそがフェミニズムの成果、みたいな金井さんのご主張にはかなりの違和感を感じる。ジェンダー至上主義といえばいいのか。「ジェンダー」は、私の中では、「人種」「エスニシティ」「階級」「セクシュアリティ」などなどと交差している一つであり、それを抜かしては分析もできないが、それだけでも何もできないという種類のものだ。
ジェンダーこそがフェミニズムの成果」的に言われると、フェミニズム内の多様な声―とくにマイノリティフェミニズム−の言ってきたことはどうなったわけ?と思わざるを得ない。とくにアメリカの超白人中心コミュニティで、「人種/民族」的マイノリティとして暮らしている立場からいうと、「ジェンダー至上主義」ははっきりいって迷惑だともいえるくらいだ。
そして、小山エミさんも、id:cmasakさんも指摘されている、「性的少数者が二分論に異論をとなえることで、フェミニズムを深化させた」という金井さんのストーリー、単純すぎると思う。フェミニズム内部からの多様な立場からの二元論的なもの(「ジェンダー至上主義」でもあるだろう)への異論はかなり長い間あったはずだし、性的少数者からの批判だってずっとあったはずなのだが、それらはどこかに忘れ去られたのか、第二波フェミニズム→最近突如としてでてきた性的少数者からの批判→フェミニズムサードステージへ、みたいな単純な図式になっているかのように私には思われた。

-「ジェンフリ」は必要だったのか?

ひとつ昨日の発表の中でいい損ねた点。
プレ研究会のなかで木村さんが以下のような流れの主張をされていた。

「男女平等では性別特性論に基づいた男女平等と誤解する人たちがいた」→新しい概念が必要になった→ジェンフリの登場、広がり

だとすると、

ジェンフリを誤解する人たちがいる」→新しい概念が必要、とならないのはなぜなんだろうか。

このループって、永遠に続いてしまうことはないか。

また、「こんなに頑張ってるんだから」「現場のひとたちはこんなにがんばって」「がんばってジェンフリを推進してきた人たちを知っているから」という理由でジェンフリを守るべきという主張もあった。

それをいうなら、私も頑張って男女平等や性差別撤廃を推進してきた人たちを知っている。では、「男女平等」や「性差別撤廃」も守るべき、ということに論理展開上はなりはしないのだろうか。

その概念を使って頑張ってきた人たちがいることを否定するものでは私はもちろんない。でも、「男女平等」(「男女」が性別二元論、という批判はもちろんわかるし、私もまずいと思うが)や「性差別撤廃」「性別役割分業」など、過去に使われてきた概念だって、それらを使って頑張って運動をしてきた人たちはたくさんいるわけで、「頑張って広めてきた、運動してきた人たちがいる」ということがとある概念を守るべきとか守らないとかいう理由づけになると、説得力がないとも思うのだ。

やっぱり、単に「頑張っている人がいる/いたから」ある概念や考え方などを守るとか守らないとかと別次元での議論および評価も必要なのではないだろうか。