中ピ連を再評価する

フェミニズムの歴史と理論」に、斉藤正美さんと私による、中ピ連関連の2つのエントリをアップしました。

これまで、女性学ジェンダー学界隈では、批判的に語られることのほうが多かった中ピ連。もちろん批判されるべきところも多々ある運動ではあったのだろうが、評価すべき点もあるのではないか。斉藤さんもエントリで書いていますが、大宅壮一文庫の文献目録で、どのフェミニストよりも、群を抜いて記事数が多いのが「中ピ連」のリーダーだった、榎美沙子さんでした。マスコミ上でこれだけ集中的に報道されたフェミニスト、およびフェミニズム団体は、後にも先にも榎さんおよび中ピ連だけなのではないでしょうか。さらに、いまでも、ピンクヘルメットのイメージは多数のひとの記憶に残ってもいます。

中ピ連の運動について、功罪ともにもっと考えてみてもいいのではないか、そんな思いで書いてみました。そして、中ピ連のみならず、他にも本当にたくさんあった、様々なウーマンリブ運動団体についても。

フェミニズムの歴史と理論」には、今後もぼちぼちペースではありますが、フェミニズムの歴史についてのエントリをアップしていく予定です。
さらに、もう少し発売が近づいてきたら、『社会運動の戸惑い』本のもう一つの柱である、草の根保守運動に関しても少しずつ書いていくかも。。ということで、久しく放置してしまっていた「フェミニズムの歴史と理論」サイトも更新再開していますので、ぜひご覧下さい。

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

北原みのりさんの「怒りを鎮める」エントリと、「大義名分や正義」批判に関して

前のエントリで、ツイッター上での北原みのりさんたちとのやりとりに関して、私からみた経緯をまとめてみた。そのやりとりを経て書かれたと思われる、北原みのりさんの「怒りを鎮める」というタイトルのブログエントリなのだが、具体的な流れを書かず、いったい誰のどのようなツイートをさしているのかまったく不明であるため、一連の流れとは別の読み物として読まれていってしまうものにもなっているように思う。
ブログエントリとして書いたものが別のものとして読まれること自体はいつでもありうることとはいえ、議論の当事者がおり、実際の発言もウェブ上に残っている中で、それを一切明示せずに実質上の批判を行う、というやり方については、北原さんなりの配慮だった可能性もあるのかもしれないが、私は正直いって、疑問を感じる。

そしてエントリの内容的には、この一連のやりとりに関して、北原さんは実は怒っていたのだということに気づいたというものだった。正義を振りかざすことの是非というポイントも書いてあるが、それはツイートを通じて北原さんがずっと発言し続けてきたことと何ら変わらない。今回のエントリで新しい内容といえば、「実は怒っていたのだと自分が気づいた」ということだけだったように私は思う。(でも、読む側からみれば、一連のツイートから、怒っているのだろうなというのは、すでににじみでていることではあった。)
そして、その「怒り」の理由を、北原さんは以下のように書く。

私を「ミソジニスト」だと言うのなら、私が女たちとやってきた、バイブを売っていること、セックスを語っていること、女の人に話を聞いて女の人生を書いていくことについて、どう思っているの!!!! どんな思いでスタッフをはじめ私たちが、この社会で声をあげているか、知ってるの? ミソジニーの社会で、せめて女に安全な場所を、女の欲望が決して消されない場所をと思い仕事をしてきたというのに!!!!!!!
なぜこんなに怒ってるかといえばだな!!!! あんたらは私の仕事に唾吐いたんだよ!!!!!!!!!!

「あんたら」という範囲に誰がはいるのか明示はされていないが、「ら」と書かれていることからも、「内なるミソジニー」に関する批判をした@さん(「木嶋佳苗被告の事件をめぐる書評関連のまとめ」を参照)だけではないのは確かだろう。だが、そもそも、一連のやりとりで発言をした人たちは、その中で誰も北原さんのラブピースでの仕事に関してのコメントすらしていない。少なくとも、私はそういう発言を見ていない。さらには、「女たち」、「スタッフをはじめ私たち」とスタッフ等の他の女たちにまで言及されているようだが、北原さんと一緒にラブピースや他の場で仕事をしてきた「女たち」に関する批判も私はみていない。あくまでも一連の批判は、ツイッターを通してみえてくる北原さんの取材者としての仕事や、個人としての発言に対してだったはずだ。

それに加え、今まで北原さんが行ってきた仕事がどのようなものであろうが、その人が「今までどのような仕事をしてきたか」によって、発言への評価を変えるべきだというなら、それこそ権威主義だということになりはしないか。

さらに北原さんは「表層だけをみるな」「本を読んでくれ」という趣旨のことを、何度もツイートで繰り返された。たしかに一連の反応は、北原さんのツイッター上でのつぶやきおよびウェブ上でわかることに関するものだったが、ツイッター上での発言も、そしてウェブ上に掲載される北原さんが出演する集会案内も、北原さんはそれをツイートされたりしていたのであり、そういった発信に関して必ずしも本を読まないと意見を言うべきではないものだとは私は思っていない。そして、実際のところは、『毒婦』を読んで、それへの感想という形で発信されていたMiwananaFFSさんに対して、今回のブログエントリにおいても、もっとも北原さんは強く反応しているようにもみえる。

さらには在日認定問題、そして、『毒婦』をめぐる取材の倫理や取材者と被取材者の権力関係の問題、『毒婦』をめぐる宣伝やイベント等(例えば「ドスコイ佳苗Night」)をめぐる問題すべてを、「良識」や「正しさの主張」という枠に北原さんこそがまとめ、おしこんでしまっているように私には見える。もっといえば、このツイートあたりをみると、韓国のフェミニストを評価しつつ(それはもちろんいいのだが)その人たちとの比較対象として設定されているようである(日本の?*1)「フェミニスト」の主張を「正しさの主張」に限定されたものとして、矮小化しているようにもみえる。北原さんにツイッターで意見をいっていた人たちだって、「迷いながら行動」している人たちかもしれないのに。

そして北原さんは以下のように書く。

大義名分や正義を堂々と振り回す、そんなことを絶対にしないように自省しなくちゃ。怒りを鎮めなくちゃ。そう心から思った。自分に誓った。私は闘っているんじゃない。自由を手放さないために必死なだけ。楽しく仕事をしたいだけ。

「自省しなくちゃ。」それは自分の自由を守り、楽しく仕事をしたいというために?他人についてはどうなのだろう?

例えば、取材の対象者である、被害者男性とされる人に対して、キスを何回、被告としたかという質問をすること。その質問に対して、同行した編集者はやりきれない表情をしていたらしいこと。さらに、その男性について否定的な印象をもったということも北原さんは記してもいる。「性暴力被害者の女性に「キス、何回したの?」とゲスな好奇心で聞いたわけではない」とも北原さんは言う。でも、女から男への質問だったら、それだけで「ゲスな好奇心」にはならない、ということになるのだろうか?そもそも、いったい何のために、同行した編集者さえもがひくような質問をしたのかもよくわからないままでもあるのだが。

さらに北原さんは以下のようにも書く。

驚いたのは、私が被害者男性の元に強引に押しかけ身動きできない状況で彼の意志をまるで無視しマスコミという権力を盾に暴力的に話しを聞いたに違いない、というストーリーが作られ固定していったこと。

だが、上記のTogetterまとめをご覧いただくとわかるように、「強引に押しかけ身動きできない状況で...」などという発言を私はしていないし、ほかにしている人も私は知らない。ここで問われている「権力関係」というのは、北原さんが取材者であり、プロのライターであること。そこにプロの編集者も同行していたこと。人数的にも取材側のほうが多い。そして、取材される側も、取材されることにおそらく慣れていないであろう人であり、さらには犯罪被害者である可能性もある人であること、だ。もちろん、北原さんは女性であり、取材相手は男性だという点で、ジェンダーだけからみれば非対称だ。だがその他の面においては...? 権力関係というのは、ジェンダーも当然絡むが、それだけで規定されているわけではない。さらに、この場合の「キス」に関する質問は、犯罪被害者男性のみならず、その相手として想定されていた木嶋被告にも関係してくることでもある。必ずしも、女→男への質問というだけに限定されない事柄でもあるように思う。

いづれにせよ、北原さんのツイート、そして今回のブログエントリでも一貫している、「良識」や「大義名分や正義を堂々と振り回す」ことへの批判などの流れをみる限り、そうした(日本の?)「フェミニスト」たちがいる、ということに強く反発しているように思える。

ここでの「大義名分」という言葉からは、北原さんへの批判がどこか外からでてきた、宙に浮いたような「言葉」にすぎず、内面からでてきた、心からの思いではないという決めつけをも感じる。一連の在日認定問題や、『毒婦』をめぐる取材、イベント、そしてMiwananaFFSさんの『毒婦』の読解について等の人様々な発言が、すべて「大義名分」として矮小化された状態でしか届かなかったのであれば、それはあまりに残念というより他ない。
そうした中で、「正しさ」にとらわれず、もっと自由な自分、そうした問題に気づいてしまい、「自省」をもできる、余裕ある自分こそ、よりよくわかっているのだ、的な位置付けを感じてしまったりするのは私の考え過ぎだろうか。

さらに、「正義を振り回す」といった言い方で、抗議運動をするフェミニストたちが、批判されてきた歴史を私は思い起こしてしまう。
そもそも、例えば「性差別をなくす」ことがフェミニズムの目的のひとつであるのだとするなら(少なくとも私にとってはそれは大きな目的のひとつだ)、それが「正義」なんだという信念がある程度はあるものではないか。少なくとも私はそう思っている。もちろんそれを考えたり、運動をしたり、さらには日頃生きていく中で葛藤をおぼえたり、揺れ動いたりするのは当然ある。でも、「性差別をなくす」ことも、「民族差別をなくす」ことも、刑事犯罪の被告であっても人権が守られることも、私の中では「正義」だ。もちろん、自分の主張だけが「正義」なのだと思い込むことのリスクは大きいとは私も思うし、それがおかしいことも多々あるだろう。そうした場合は批判されるべきだし、議論も積み重ねられるべきだ。でも、だからといって、「正義」を主張すること自体を問題視する、というスタンスはどうなのか。

たしかに、否定的感情が前面にでた形のツイートで批判されると、こたえる。それはわかる。日頃から、「ネトウヨ」的な、見るに耐えないような批判を大量に受けている北原さんの場合、より大変な思いを日頃からされていることだと思う。それには心から私も憤りを感じる。そうした批判と似たようなものを感じるような、嫌味や否定的感情があまりに前面にでる発言をしてきたと感じられたのなら、私自身も反省し、考え直す点は多々あると思う。

でも、その上で。

北原さんは女である自分が、闘っているんじゃない、「楽しく仕事をしたい」んだという。「楽しく仕事をしたい」という思いは否定しないし、私だってそう思う。だが、それだけでいいんだろうか。その中で、他人の人権を侵害しているかもしれないといわれた場合、どう考えるべきなのか。さらには、闘っている人がいた場合、それを単に「大義名分や正義を振り回す」扱いにしてしまうのはどうなのか。自分が楽しければ、自由ならば、それだけが何よりも重要だというなら、それは私にとってのフェミニズムではない。自らにもある、権力性や差別性を常に振り返る視点を持ち続けること、それが私にとってのフェミニズムの外せない側面だから。そして、「大義名分や正義をふりかざしている」という決めつけ的な批判の物言い自体がもちうる保守性と、そういう批判がフェミニズムについて向けられてきた歴史、そしてそれと闘ってきた女たちの歴史も忘れたくはない。

同じ*2フェミニストだからこそ、という期待の裏返し的な面は私は正直もっていると思う。同時に、だからこそ、議論が時にはひじょうに困難でもあることもわかる。それでも、対話も議論も可能なはずだとも思っている。

*1:ここで「?」をつけているのは、北原さんが誰を具体的に指しているのか不明だからでもある。ちなみに、今回の一連のやりとりを行った人たちには、在日コリアンの人も、そして私も含め、在北米の人もいる。

*2:加筆:この「同じ」という言葉は問題があるのでは、というご指摘ツイッターでいただきました。確かに「同じ」というのは乱暴な表現だったかもしれません。「フェミニスト」と自認するどうしだとしても、それが必ずしも「同じ」であるとは限らず、むしろ差異は多々あるわけで。ご指摘感謝。

北原みのりさんたちとのTwitterでのやりとりの経緯

北原みのりさんが「怒りを鎮める」というタイトルのブログエントリを書かれている。そのエントリは以下の文章から始まっている。

一月ほど前、私がTwitterで書いたいくつかの「つぶやき」が元になり、私のタイムラインが炎上してしまった。我ながら打たれ弱いなって思うんだけど、Tiwtter、しばらく見られなかった。(中略)今回は男女共同参画関係者やフェミニストの人たちからのバッシングだった。

この一連の流れに私も関わっているのだが、この北原さんのエントリだと、具体的にどのやりとりをさしているのか、明示されないままとなっている。エントリ自体は、自分自身の怒りだとか弱さの問題といったところが最後に結論的に書かれているが、そもそもの「怒り」の原因、として、いったい具体的に誰にどういう指摘をされ、展開をたどったやりとりだったかは明記されないままに、北原さんが「バッシング」と理解された意見への批判がなされている、というものになってしまっている。

そこで、私から見えた、一連のTwitter上での展開をたどってみる。

ログをたどってみたところ、8月10日〜12日くらいにかけてのTwitter上での展開だった。8月10日に、北原さんが以下のツイートをした。


これに@さんが反応し、差別行為としての在日認定とその対応について@をつけて指摘した。これには北原さんも反応し、やりとりが行われ、指摘されたことについてより考えていこうという内容のツイートもされていた。例えば以下のようなツイート。

そこで、@さんも反応。これには北原さんは反論している。

たしかこの展開の中だったように思う。8月10日に以下の北原さんのツイートをみて、私がRTして反応している。


だが、北原さんに@をつけるという形での意見表明はしなかった(これについてはつけるべきだったかもしれないと後で反省)。
そして、しらゆきさん(@)が@つけて意見をいわれていたので、様子見してみることにした。

その後、北原さんによるこれらのツイートがあった。@さんとのやりとりも含まれている。

翌日しらゆきさんが反応。

これをうけて北原さんがしらゆきさんをブロックした様子。しらゆきさんへのレスはないままだった。

ほかにも@さん, @さん, @さんらとのやりとりもこの頃行われていた。そして、@つけて意見をいった人たちがどんどんブロックされていった。

そんな状況の中、8月12日に北原さんから@でツイートが私にきて、私と取材者と取材される側の関係等についてのやりとりがあった。その流れのTogetterまとめが以下。
http://togetter.com/li/357139

さらに、『毒婦』を読んだ@さんが、本や、その他の書籍宣伝イベント等に関して連続ツイート。そのまとめは以下を参照。
http://togetter.com/li/355470

数日後、北原さんはこんなツイートもされている。

こういったやりとりの後、一ヶ月後にブログエントリが書かれたという流れ。

あくまでも私から見た流れなので、落としているものとかもたくさんあると思う。重要なことが落ちているなどあったらご指摘よろしく、です。

また、引用されたくない方がいらしたらお知らせ下さい。配慮はします。とはいえ、鍵なしアカウントでのツイッター上の発信はウェブ上に掲載されている情報でもあるので、ソースを示した引用は自由であるべき、というのがいちおう、私の個人的なスタンスではあります。

「フェミニズムの歴史と理論」70年代ウーマンリブ運動とメディアに関するエントリ掲載

「フェミニズムの歴史と理論」サイトの更新を少しずつ再開しています。
先日は斉藤正美さんによる国立女性教育会館(ヌエック)の現状に関するエントリの掲載を紹介しましたが、今回は70年代ウーマンリブ運動とそのメディアをめぐるストラテジーに関して、斉藤さんによる2つのエントリを紹介します。

斉藤さんも私も、もとはといえば1970年代からのウーマンリブ運動など、フェミニズム運動の歴史を追いかけてきた研究者です。そういうわけで、できることなら70年代からのフェミニズム運動の流れも近刊の社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動の中で書きたいのはやまやまだったのですが、本は主に90年代半ば以降、とくに00年代の動きを中心に扱っていることもあり、スペースの都合上、泣く泣くあきらめたのが70年代のリブやフェミニズム運動に関する部分でした。そして、80年代もかなりの部分を諦めざるをえず... そういった、今回の書籍に書くのはあきらめたけれども、歴史としては大変に重要である事柄について、加筆などもしつつ、ブログ用にアップしていく予定です。

この後、斉藤さんによる中ピ連とメディアに関するエントリ、そして私が行動する会について書いていく、といった感じで、ちょっとしたシリーズ的に続けていくつもり。

そのほかにも、「フェミニズムの歴史と理論」サイト掲載用のほかのエントリ案もいくつか出てきているところですので、お楽しみに〜。

『社会運動の戸惑い』本発売のお知らせ&斉藤正美さんのヌエックに関するエントリ

Twitterにても第一弾のご案内(別名ステマw)を流しましたが、10月末発売予定で『社会運動の戸惑い――フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』という書籍を、斉藤正美さん、荻上チキさんと共著で出すことになりました。

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

ここ5年ほど筆者陣は、2002〜5年頃にピークを迎え、その後もしばらく続いたフェミニズムと草の根保守運動の係争、すなわちフェミニストに「バックラッシュ」と呼ばれた動きに関して、係争の起きた地のいくつかを訪れ、フィールド調査を行ってきました。タイトルにも表れているように、フェミニズム側、そして反フェミニズムの保守運動側(バックラッシュ側)双方に聞き取りを積み重ねてきました。要するに、フェミニストである筆者が、フェミニストのみならず、論争、批判の相手だった保守側の「バックラッシャー/バックラッシュ派」の調査を行い、それに基づいて書いた本です。

この本のプロジェクトはバックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?本、そしてキャンペーンブログでの議論の積み重ね等を通じて始まったようなものです。そんなわけで、「バックラッシュ」といわれた動きへの絡みとしても、そしてこの本ができるまでの経緯からしてもネットは大変重要。しばらく放置してしまっていた「フェミニズムの歴史と理論」ブログも更新していかねばと思っております。その第一弾ということで、早速斉藤正美さんが、ヌエックについて、新たに出た「国立女性教育会館の在り方検討会」の報告書から、ヌエックをめぐる問題について考える内容のエントリをアップしています。ぜひご覧ください。『社会運動の戸惑い』中でも、ヌエックの歴史と現在について詳細に検討した章を斉藤さんが執筆しています。

ヌエックが「戦略的推進機関として創設」される?!

この本をまとめながら(まだ作業は終わっていないw)、扱う時期的にも、ある意味内容的にも、以下の2冊の間をつなぐような本なのかもしれない、と思ったりしているところ。そのへんはまあ追々に。

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ファイトバックの会ブログの再公開への抗議

2012年7月3日付で、「館長雇止め・バックラッシュ裁判を支援する会」の開設から2008年までの過去のブログエントリが公開されたようです。

これに対して「フェミニズムとインターネット問題を考える」研究会の会員一同で、中止要請をブログ管理者宛に、2012年7月4日、メールにて送付しました。

中止要請は「フェミニズムとインターネット問題を考える」サイトにアップしましたのでご参照ください。

中止要請に簡潔に書いていますが、ファイトバックの会の過去のブログは、「フェミニズムとインターネット問題を考える」研究会で詳細に内容を検討し、誹謗中傷にあたる内容がひじょうに多かったという結果を得ています。

参考:

それにもかかわらず、裁判も終わった今さら公開するというのは、まったく理解できない行動です。

管理者の方には一刻も早く、公開をとりやめていただくことをお願いします。

キャンパス・ミスコン事業を行う企業担当者へのインタビュー

一橋大学でのミスコンに関するトラブルが話題になっているようです。
「一橋大の大学祭ミスコンでトラブル 性同一性障害の男子の参加拒否」
Togetter ミスコン男の娘出場騒動で一橋大学学園祭委員に対し公開質問状提出 まとめ

このニュースに関して、Twitterで小宮友根(@froots)さんが以下のツイートをしていらっしゃいました。

そこで思い出したので、昨年のこの時期ICUのミスコン問題が起きていた頃に、ミスコン関連企業の方に電話インタビューを行った内容をまとめたものを掲載します。今回の一橋のミスコンに関連する企業とは別の企業になりますが、同じ業界ということで、現在の多くのキャンパス・ミスコン開催の背後にいる企業側の視点の一例としては参考になるかもしれません。

                                          • -

2011年7月5日朝10時頃。A社本社あてに、前日に続いて電話。前日は担当者不在といわれ、かけなおすというやりとりがあったが、この日も同じ男性がでた。
ミスキャンパスコンテストのご担当者の方に話しがききたいとまた言ったところ、今日も朝から出ているのでいつ帰ってくるかわからないと。何を聞きたいのかわからないが、「私の知識」で対応できる範囲のことならする、とこの男性にいわれた。

私が現在、A社本社近所に滞在中なので、広報資料などいただけて、その際にお話伺えるならすぐ対応できるのでお願いできないかと聞いてみたところ、電話でなら対応するという。今でもいいんですか?と聞いたらいいというので、急遽電話取材モードに。

フェミニズム系の研究者で、ミスコンの歴史や現状について調査している。今現在大学におけるミスコンが注目を集め、議論もよんでいるようなので、その現状や歴史などについて知りたいという旨のことをいうと、その程度なら対応できるとこの男性。この方はA社の「代表」だということだった。(いったい「外にでている担当者」は実在するのかどうか、この時点で興味がわいた。)

ミスキャンパスコンテストはA社が主催しているのではなく、大学の学生たちが行い、A社はそれを取材するという立場である。なので主催という観点からは話できない。学生たちが候補者を選び実行するものであり、実務的にサイトをつくるなどの手助けはする、そういう立場。去年は19大学にて行われた。その取材をするのがA社という位置付けである。

「ミスキャンパス」は登録商標で、代表者個人の名前で登録している。商標として登録したのは、「ミスキャンパス」という名称が風俗系のタイトルやらビラなどで使われるのを防ぐため。風俗系で使われるとイメージが損なわれるから、商標登録してそれを防いだ。
「ミスターキャンパス」については商標化していないが、これは風俗において使われる可能性が低いと思うからだ。

「ミスキャンパス」が大学におけるかわいこちゃんコンテストではいけないので、我々はたとえば今年は、アジアの友好親善の一翼を担う親善大使としての活動などの可能性も模索している。エコ活動ももうひとつの社会貢献の可能性。意義ある活動をしてほしい、おしつけがましいかもしれないが、友好親善活動的なものにつながればと考えている。

学生のやりたいという思いがあり、そこに企業としては事業として成り立つかどうかという視点も必要になる。賛同した大学には主体性をもって運営していただいている。

イベントで選ばれた人たちについては、ウェブや雑誌に掲載したり、テレビ番組化などをしたりする。ほかの企業からイベントの協賛もつのり、ビジネス上の展開をしている。A社の役割は情報として提供すること。コンテストのビジネス性はどうかを考えざるを得ない面はある。

立命館あたりは着物を着せたりしているようだが、と聞いてみたら、多くの大学はウェディングドレスを着せたりしている。ほかの企業の一部協賛をとったりすることでこれは成り立つし、学生たちが地元の着物関連の企業などのスポンサーをつのったり、先輩のつてをたどって探したりなどの活動をしている。ウェディングドレスはメーカーが広告の場として提供している。

ミスキャンパスコンテストはA社としては「コンテンツのひとつ」として考えている。はじまりは2006年から。アクセス数は始めたときからあまりかわっていないが、「キャンパスナビ」の中では人気コンテンツ。

ミスターキャンパスはやっている大学自体も少ないし、ビジネスとして広告スポンサーもつけづらく、事業性が乏しい。なのでA社はとくにかかわっていない。

たとえばトランスジェンダー性同一性障害のひとがミスキャンパスに出たらどうなのか、ときいてみたら、性同一性障害の方が出た場合、あくまでも大学生主体のコンテストで、イベント運営しているのも学生なので、事業としてそれがまずいということはいわない。あくまでもうちの立場は情報として提供するということ。しかしながら、コンテストのビジネス性はどうかという点は、たとえばコンテスト出場者全員が性同一性障害の方々というようになった際、考えざるを得ない面もある。(しかしA社の人の話を聞く限り、「ミスキャンパス」には「女性」および「最大限譲歩して」性同一性障害の女性はなれるが、コンテスト全体の出場者からしたらマイノリティである必要があるっぽい。そしてそれ以外は念頭にはないという印象をもった。要するにICUでのミスキャンパスにもしA社が絡むとしたら、やはり基本的には「女性」しか対象とならないだろう、ということだ。)

国際基督教大学が今年から「ミスキャンパス」をはじめるという話をきいたがどうなのか、という質問に対して、「それは知らなかった」という答え。(直接の担当者ならわかるのか否かは謎)。商標登録しているのに、ほかの大学で「ミスキャンパス」を行ってもいいと考えているのかと聞くと、ミスキャンパスというのは一般呼称でもあるので、A社がこだわるのはビジネスとして、とくに風俗系ビジネスで使用されるときだ。ネガティブイメージができるから、とのこと。たとえば東大でミスキャンパスコンテストがあり、それを商標違反だとこだわってもおかしいし、する気はない。ICUの件は知らなかったというのは2度ほど言っていた。

ミスキャンパスコンテストへの抗議は聞いたことがない。そもそもそういう土壌がある大学ではミスキャンパスは行われていない。大学が公式に認めた、公式行事としてやっているケースが多い。そうなると抗議は発生しづらい。

関西においてミスキャンパスが最近いくつかの大学で開催されるようになった背景について。最初は関西学院同志社で始まった。関西の大学には東京への対抗心が強く、東大や慶応などの有名校でミスキャンパスが行われ、脚光をあびている。そんな中で、有志の人たちがやりたいとなった。東京に負けたくないという思いが強いのだろう。
その後立命館と関大でも始まった。立命館でキャンパス外で行われたのは、最初だし公式行事としての認定が得られていないという状況がある。実績がないと公式行事として認められないという状況があるようだ。
京都大学については、行うような土壌がない。左翼の思想が強い大学であり、反発が強かったようだ。
立命も左翼系じゃないですか」と私がきいたら、以前はそうだったろうが、今は同志社立命が並んでいるみたいな個人的印象もあり、左翼的な思想はかなり薄まったはず。大学側のマーケティング努力もあるのだろう。(明らかに左翼思想が苦手な雰囲気が電話からかもし出されていた。)
反発の土壌という面ではICUもそうじゃないですか?ときいたら「ああキリスト教だからそうかもしれないですねえ」とのお答え。ICUジェンダー研究系背景についてはご存知ない様子。

有志がやったという点では、同志社立命も同じようなケース。このあたりの学生たちには、ミスキャンパスがジェンダー問題であるという意識がない。もりあがりのイベントのひとつとして考えており、注目あびやすいから開催する。実際あびているケースが多い。アナウンサーの登竜門的に使われているのは都内有名大学などの一部の大学だけで、ほとんどの大学ではそういう状況ではない。アナウンサーというのは志望動機のひとつではあるだろうが、もうひとつ質がいい目立ちたがりやみたいな側面がある。そして目的意識をもつタイプもいる。アナウンサーもあるが、就職難の状況の中で、CAなど人気職業へのステップとして考えている人も多い。ほかには学生時代の思い出として出るタイプもいる。
実行委員会にはいる学生たちの就職には影響しない。学生を採用する企業として、こういうイベント企画は評価がまちまちだろう。だが、注目をあびやすく、集客力があるイベントとしてやりがいを感じているようだ。
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最後にこの代表の方のメアドを伺うついでに、代表のお仕事をいつからやっているのか聞いたが、今年から始めたのでまだ数ヶ月との答え。
しかし代表自ら2日連続で電話に出ていること、「担当者」がいつも「外出中」のようであることなどから、このオフィスには果たして本当に彼の部下はいるのだろうか、とはちょっと思った。

ちなみに、この会社は昨年私が日本に滞在していたときの滞在先から徒歩10分もかからないところだったので、散歩がてらにどんな会社なのかなーと見にいってみたら、あのエリアの中でも目立って古い住居用マンションの一室だった。大手町にもオフィスがあるようなので、もしかしたらそちらは立派なのかもしれないが、このオフィスはオシャレな若者相手のネット系商売している企業の本社には見えない雰囲気。実際あのオフィスで働いているのも1−2人がせいぜいかも、というような外観だった。