社会に翻弄される女性学?日本女性学会2010年度大会シンポの感想

週末、大阪ドーンセンターで開かれた、日本女性学会に出席してきた。なんとこれで、3年連続で女性学会大会に出てしまっている。年々、学会会場で会う人にそっぽむかれる状態になることが増えている気がしないでもないのがアレだが。まあ仕方ないか、あれだけ嫌がる人もいるであろう内容のワークショップを連続して企画したりしてればなあ。

それはさておき、大会シンポは「社会を動かす女性学」というタイトル。女性学会設立30周年を昨年記念し、今年は31年めに突入ということで、これも記念シンポ系の位置づけがあったらしい。しかし、女性学を振り返る系のシンポ、女性学会で今まで何度となくやられてきた。それでとくに議論が深まってきたとも思いづらいものがあるが、今年もまた同じかという予感が、行く前からしていた。しかもシンポメンバー的には、いわゆる「大物」2名(江原さんと内藤さん)、「運動の人」1名(赤羽さん)、「若手」1名(荒木さん)という、あまりによくある、予定調和で終わりそうな印象を与えるバランスである。しかも当日の発表順序が、大学教授たちが最初と最後、それにはさまれて「若手」と「運動の人」が発表するというもの。これだけでなんだかうーん、と正直思ってしまった。いったいどういう狙いでこのシンポを木村涼子さんが企画したのか知りたいなと思っていたが、シンポが終わるまで、それは結局さっぱりわからないままだった。いったい何を狙ったシンポだったのかという質問、したかったな。

「社会を動かす女性学」にもかかわらず、「社会に動かされる/翻弄される女性学」といいたいのだろうか、と思われる、江原由美子さんの発表が最初だった。女性学はそれだけで独立して発展、変化したのではなく、社会状況と絡んでそうなったのだ、といういわば「当たり前」の事を、70年代から今に至るまで「女性学の動き」と「一般社会での大きな動き」みたいなものを対比させつつ語るばかり。正直いえば、「手抜き甚だしくない?」と思えてしまう、そんなパワポ発表だった。大学生相手の講義でも物足りないような内容を、なぜこの学会で語るのだろう?とフシギすぎた。そして、視点がものすごく大まか。「地域の動き」なんてなかったかのようで、現実離れ感を感じた。江原さんが語るストーリーを聞いていると、女性学というのがいかに社会の動きに翻弄され、大変な状況に陥ってきたかを強調しているのかのようだった。そして、2001年から今に至るまで、女性学はずっとバックラッシュに対抗してきているらしいのだが、その「バックラッシュ」という言葉で具体的に何をさしているのかは語られないままだ。質疑応答の際、「バックラッシュ」についての質問がでたとき、「バックラッシュは政治家たちの動き」という発言が江原さんから出た。そうだったのか!?どうみても「バックラッシュ」という言葉で語られる現象への共通理解が成り立っているとは思えない。去年のワークショップで、ずいぶんこの「バックラッシュ」現象が曖昧に捉えられるばかりで、実証研究的知見が存在せず、生かされてもいない問題について指摘したように思うのだがなあ。何を指摘しても、同じ問題が永遠に繰り返されるという状況を目の当たりにした気分だった。

この江原さんのトークに対し、「クィア研究について、女性学の歴史を解説という中でまったく言及されてないが、どう江原さんは位置づけるのか?」「女性学の成果として社会学しか挙げられていないが、女性学というのは学際性がひとつの特色ではないのか、学際性についてどう考えるのか」という質問を紙に書いたのは私だ。すると、「ジェンダー研究とセクシュアリティ研究は重なる面もあるが基本的に別」といったような趣旨の意味不明な回答がかえってきた。要するに、あくまでも「クィア」というのは「女性学」の外部である、という位置づけのようだった。おそらく、ほかのマイノリティが関連する研究も「外部」扱いになるのだろうなあと思ってしまう。

荒木さん。「フェミ嫌い」という現象について分析されているようで、基本的にマスコミにおける表象分析をしたいのかなあとも思ったが、レジュメの端々に、ありとあらゆる人たち(女性学会の学者先生たちや、バトラーなど海外の著名人など)がこれでもか、これでもかと引用されており、結局荒木さんがいったい何を主張されたかったのかが、私にはよくわからないままだった。また、「フェミ嫌い」というマスコミ上の言説、荒木さんが大学で教えている学生たちの発言などが語られつつ、それが「バックラッシュ」という文脈につなげられてもいたようだが、ここでも「バックラッシュ」がいったい何をさしているのかわからないまま。江原さんが言う「バックラッシュ」とは違うようでもあったが、とくに議論になるわけでもない。フェミニズムが、自らにむけられる批判に向けてこう答えるべき、というような感じでご発表が終わっていたが、いったい「誰にむけて」答えるべきと言っているのかも私にはよくわからないままだった。

次いで赤羽さん。いちばんわかりやすいご発表で、いこるなど、非正規問題労働運動に関わってきたお立場から、女性学のプラス面を語りつつ、批判もするような感じ。ご批判はもっともと感じる面も多く、このパネルの中で女性学をストレートな形で批判したのは赤羽さんだけのようにも思えた。だが、この赤羽さんのご発表は、女性学会にあまりにありがちな、「運動の人が女性学を批判する」構図に落とし込まれてはまってしまったかのようで、しかもそれに対して「女性学の人」たちによる回答もないまま(もとはといえばやるつもりだったようだが、時間がなくなったようだ)で終わってしまった。いわば、いつものパターンの繰り返し、という感じ。いい加減、「運動の人」ばかりに女性学批判させ、しかもそれには答えないで終わりというパターン、やめようよ。。(「批判」役にまわる/まわらされる人たちは、「運動の人」のほかに、「外部」認定の人たちというケースもよくあるが。)

最後に内藤さん。内藤さんだけが、ご自分の研究調査に基づいた発表という感じだった。女性学講座や女性センターの状況についてのご調査。分野が違うといえばそれまでだが、現場でのフィールド調査的な手法をとる私にとっては、内藤さんのご調査は、マクロすぎて、各地の現場でそれぞれ異なる具体的状況や困難、取り組みが見えてこなくて、かなり物足りなかった。もともと、統計調査系統の方なんだろうか。

上記の4人のパネリストによるご発表はそれぞれがどうにもかみ合っておらず、だからこそ議論も深まらず、盛り上がらない。結果として、議論時間の後半大部分は、女性センターで働く人たちが「私が働くセンターでは、、」というような現状紹介系のお話をいくつかされるばかりで、司会者はそれをさして「もりあがった」と言っていたようだが、果たしてそうなんだろうか。「社会を変える女性学」なる、そもそものテーマはどこにいってしまったのだろう?結局、「女性学」の検証なんてほとんどなされないまま、シンポが終わった。

もう一つ気になった点。現状が大変だとか、運動的な取り組みということを言及するときに出てくるのが、労働や雇用関連ネタばかりということだ。たしかに女性をめぐる労働状況は大変だし、それが重要な課題であることには異論はない。でも、フェミニズムが関わってきた運動とか、社会問題ってそれだけじゃないはず。基地や平和問題、「慰安婦」問題、マイノリティの状況、政治をめぐる状況などなど、(日本人へテロ女性の)労働以外の問題が、「いま」の問題としてまったくあがってこないことに、かなり違和感をもった。現実の女性学が直面する問題が出てくるとすれば、ぼやっとした「バックラッシュ」という言葉ばかりで、それは何をさすのか、今現在どういう状況にあるのかの議論はできないまま。結局、「女性学」って、相変わらず内部から批判できないものと女性学会的には位置づけられているの?という疑問ばかりが残ってしまった。正直、私にとってはひたすら脱力感があるシンポだった。