macska dot orgエントリに端を発したファイトバックの会関連の議論について

macska dot orgのエントリに端を発し、ファイトバックの会についての議論が起きている。
私はこの会の呼びかけ人であり、支援を続け、意見書も出している。会の内側の人間といえるだろう。もちろん、会のひとたちの意見は多様であり、私の意見=会の意見ではない。むしろ、私の意見は会の中でもマイノリティだと思うが、せっかくmacskaさんが口火を切り、さとうしゅういちさんid:discourさんなどが議論を展開していることから、私も私の立場からの意見として書いておきたい。
ここで会についてのみならず、フェミニズム運動について様々な意見や批判(自己批判も含め)を交換し、議論することも、プラスになるのではないかと思うからだ。
1)会のブログについて

実はファイトバックの会のブログをたちあげたメンバーのうちの一人は私だ。そして、コメント欄がない、閉じたスタイルのブログであるという、macskaさんやdiscourさんの批判はまったく正論であると思う。
開設した当時は、 「対応が面倒だな」というだけで、深い理由もないままに、コメント欄をつけなかった。以前、あるフェミニズムNGOで働いていたとき、その団体のHPで掲示板を運営していた時期があり、あまりの荒らしの多さに辟易していたのも原因だったかもしれない。同時に、ブログ開設が2004年の年末で、当時はまだまだ今のようにブログが隆盛ではなく、ただ単に更新が簡単なHPのようなものと捉えてしまい、ブログというメディアのインタラクティブな特性について、開設した私自身もまだよくわかっていなかったともいえる。トラックバックだけはそのままにしてあるのだが、それも特に深いわけはなく、単にその時にトラックバック機能を消す方法がすぐ見つけられずに、放置しておいただけなのだった。

だが、時がたつにつれ、今でも、コメント欄は残したほうがよかったのではないかとか、復活させたほうがいいのではないかと、考えたりもする。やはり、会以外のひとたちからのコミュニケーションの場を閉ざしてしまっていることになるからだ。そして、コメント欄が閉じていることで、エントリを書いてもそれへのストレートな反応がわかりにくいこともマイナス面だと思う。たとえ批判的なコメントだとしても、そういう意見が実際存在することを知っておくのも大切だろうと思うからだ。

現在は、私はこの会のブログ運営にはほとんど関わっていないので、私ひとりが「コメント欄復活」と思っても、勝手にするわけにもいかないし、実際管理し、書いている人たちの判断になるのだが(管理がより大変になるのも事実だし。)開設した一人としては、コメント欄が閉じていることに対する批判がくるのも当然だと思うし、復活させることを考えてもいいのではないか、と個人的には思っている。

さとうさんが「意図的に閉鎖的」にしているわけではないと主張されており、たしかにブログに関しては背景はそうなのだが(深く考えずそうしてしまったことは、私自身の反省事項だ)、結果的に閉鎖的になってしまったり、そう見えていることは事実だ。また、ブログの内容自体も、閉鎖的に見える効果をだしているのかもしれない。ニュースサイト的な媒体なのか、会員の意見や感想を掲載する媒体なのか、目的がはっきりしていないとも思う。(ちなみに、開設当時に私が想定していたのは、裁判に関するニュースサイト的な媒体だった。)
運動体として、裁判支援を広げようとするなら、ブログやHPなどの効果もしっかり検討すべきだろうと思う。(これは、この会のみならず、フェミニズム系運動に足りていない点のように思う。)意図的であるとか、ないとかの問題なのではないのではないか。

2)非常勤問題と「館長雇い止め」問題

バックラッシュと非常勤問題と、両方に関わる裁判だ、といい、そして法的争点は非常勤問題のほうだったにもかかわらず、会の集会やネット発信などでは私が見る限り、バックラッシュのほうに力点が置かれがちだったのは、事実だと思う。「どこにでもある非常勤の雇い止めに関する裁判」というより、「日本で初めてのバックラッシュ裁判」といったほうが、マスコミや人々の注目を集めるといった思いもあったかもしれない。実はひじょうに重要な、「どこにでもある」問題はどうしても埋もれがちになる傾向がある。

もちろん、私も意見書まで出しているわけで、バックラッシュは重要ではないとか、なかったとかいいたいのではない。もちろん存在したし、全国的な動きと関連していたのも事実だ。(ちなみに、私が出した意見書は、全国的な動きと豊中市の動きの関連、という一点集中型の意見書だ。)ただ、広い層へのアピールとして、社会運動としても、会の非常勤労働問題への取り組みがバックラッシュと比べて、圧倒的に目立たず、弱かったかもしれないという思いがあるのだ。

非常勤や有期雇用問題の波を大きくかぶっている、今の20〜30代(とくに氷河期就職世代だった30代)の女性たち(女性以外にも、だが)に広く訴えかけることがまだまだできていないことも、もう一つの反省点だ。最も今の20〜30代に関連深い問題だったにもかかわらず、会には非常勤雇用や有期雇用の問題にもっとも厳しく直面している世代は少なかった。若い人が入りづらい雰囲気を醸し出していたのかもしれない(と、30代にギリギリひっかかっている私も感じる面がある)。そして、男女共同参画センターまわりで活動している層(男女共同参画センターで労働している層ではなく)や、女性と政治がらみの運動をしてきた人たちが、比較的年齢層が高く、主婦が多いと言い切るのは行き過ぎとも思うが、日々非常勤労働で生活に追われている層が少なかったりすることは現実だと思う。discourさんが指摘されているように、男女共同参画センターというものが、日々、非常勤労働で、生活に追われている状況のひとたちにあまりに遠い存在になってしまっているという問題もひとつの背景かもしれない。

macskaブログエントリや、コメント欄でmakikoさんが指摘している、一般の非常勤労働者の問題(多くの場合、組織の末端におかれている)と、非常勤といっても管理職でもある「館長の雇い止め」という問題がつながるような、説得力のある議論ができていたのかどうかという問題。これも、「館長だけれど非常勤なのだ」、あるいは「女性問題という点で同じなのだ」という文言を繰り返すだけでは、説得力が足りなかったのではないだろうか。非常勤であれども、「館長=管理職」という特殊性をしっかり自覚した上で、連帯をめざすべきだろう、というmacskaさんの指摘は、重い。

3)「手弁当」状態の会だから仕方がないのか?

さとうしゅういちさんは、macskaさんらの批判に対し、会は小規模で「手弁当」状態であり、限界があるので仕方がないといった議論を展開している。だが、日本におけるフェミニズム運動体というのは、一部例外はあるだろうが、ほとんど小規模で「手弁当」状態なものだろう。そして、「維持だけで精一杯」だから社会へのアピールはできないなどという状態なのだとしたら、いったい何のための維持なのかという、その運動体自体の存在の意味も問われてしまう。どんなに運営が大変でも、外へのアピールについて常に考えてないと、運動をしている意味もないのではないか。(実際、会員もふえているし、維持だけで大変という状態とも言えないとは思うが。)
もちろん、私も会をある程度はみてきているので、運営が大変なことは理解している。(というか、私もいちおうはその一部なわけだ。)それでも、会の長所はもちろん、短所や足りない点についても、批判や議論を拒絶するのではなく、それらをしっかり捉えて議論し、今後どうしていくのかを考えて行くことが必要なのではないかと思う。しかも今回の批判は、無理に主張を曲解しようとするようなバックラッシャーではなく、運動現場の経験も豊富な、フェミニストたちから来ているわけだ。多様な意見がでて、議論をしつつ先に進んで行くということこそ、フェミニズムの強みなのではないだろうか。